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又貸し

−4−

「キャアアアアアッ!」
 それを目撃した朋美が悲鳴を上げ、玄関のドアを閉めてしまった。
 早智子を運んできたタクシーの運転手もギョッとし、車を出して立ち去る。
 凶刃にさらされようとする理佳と神戸。
 神戸は勇敢にも早智子に素手で立ち向かった。包丁を振り上げる手をつかみ、なんとかもぎ取ろうとする。だが、早智子は女にも関わらず、刑事相手にひるみもしない。決して血にまみれた包丁を手放そうとはしなかった。
「理佳さん! 朋美さんを連れて、近くの交番に逃げるんだ! 早く!」
 神戸は苦戦に声を絞り出しながら指示した。理佳は躊躇する。
「でも……」
 杉浦が倒れ、神戸一人だけで立ち向かえるのだろうか。相手は女とはいえ、狂気をはらんだ殺人鬼だ。現に包丁を奪うどころか、神戸の手や腕に切り傷が増え、血が飛び散る。
「いいから、早く! そうすれば応援も呼べるんだ!」
「わ、分かった、待ってて!」
 理佳は玄関から中に入った。朋美が慌てたあまり、鍵をしてなかったのが幸いした。理佳は改めて施錠し、チェーン・ロックも引っかけ、朋美を探そうと思った。外ではドアに激突するほどの激しい格闘の音が聞こえてくる。理佳は震えを止められなかったが、とにかく神戸を助けるためにも、朋美を連れて近くの交番に駆け込まねばと思い、土足のまま上がり込んだ。
「朋美ーっ! どこ?」
 理佳は呼んでみた。が、返事がない。恐くて、どこかで震えているのだろうか。
 勝手知ったる他人の家、理佳はまず一階奥にあるダイニング・キッチンへ行ってみた。
 勘は正しかった。朋美はダイニング・キッチンのテーブルの下に隠れ──とはいえ、丸見えなのだが──入ってきた理佳の姿にすくみ上がった。
「朋美、私よ、私!」
 理佳は朋美を落ち着かせようと努めながら話しかけた。
「理佳……! なんなのよ、アレは!」
 朋美は唇を震わせながら尋ねた。
 理佳は説明しようかと思ったが、今は緊急を要するのでやめ、
「それより、ここから逃げましょ!」
 と、テーブルの下から朋美を引きずり出した。
 朋美は殺人鬼のいる外に出たくなかったようだが、恐怖に力が入らないようで、理佳に引っ張られるまま勝手口までやって来た。
「近くの交番は?」
「駅の方……」
「あそこか。──いい? ここを出たら、そこまで走るわよ!」
 朋美は泣き顔のままうなずいた。
 理佳は意を決して勝手口を開けた。だが──
「!」
 眼前に南早智子が現れた。どうやら玄関から回ってきたようだ。包丁を振り上げる。
「キャッ!」
 理佳はとっさに手を前にしてガードし、後ろに倒れ込んだ。手の平にサッと熱いものが走ったかと思うと、すぐに疼きに変わった。切られたのだ。
 狭い勝手口での出来事で、理佳は朋美ともども倒れ込んだ。苦痛に顔を歪ませる。早智子は二撃目を加えようと襲いかかってきた。
「イヤッ!」
 理佳は近くに置いてあったプラスチック製のゴミ箱をつかむと、早智子に向かって投げつけた。中身が一杯だったら持ち上げることも出来なかったかも知れない。軽々としたゴミ箱だったが、ちょうど角の部分が早智子の眉間を痛打し、ひるませることに成功した。
「今のうちよ、朋美!」
 理佳は素早く立ち上がると、玄関の方へ逃げた。
 だが、朋美はすっかり怯えてしまい、それに遅れた。
「朋美!」
 早智子はまだ倒れたままの朋美の胸に包丁を突き立てた。朋美は一声、呻いただけ。すぐに四肢から力が抜けていくのが分かった。ほぼ即死だったのだろう。しかし、早智子は狂ったように何度も何度も刺し続けた。ダイニング・キッチンは血に染まり、日常的な風景などかき消されてしまった。
 理佳は悪夢を見ているようだった。夢なら醒めて欲しい。誰か助けて!
 だが現実は非情だ。早智子の目が理佳に向けられる。
 理佳は逃げた。玄関へ。だが、慌てていたために、玄関脇にあった二階への階段を登ってしまった。もっとも内側から鍵をかけ、おまけにチェーン・ロックもしていた状態の玄関ドアを、この恐慌状態でうまく解除できたか怪しいものだが。
 何度も遊びに来ている理佳は、二階の朋美の部屋に逃げ込んだ。幸い、この部屋は内側から鍵をかけられるようになっている。鍵をかけるのと、ドアの外に何かがぶつかるような音が響いたのは同時だった。
「ひぃっ!」
 理佳は首をすくめた。ドアノブがガチャガチャと鳴る。開かないと分かると、荒っぽくドアが叩かれた。
 入口を塞ぐものがないかと理佳は部屋を見回した。だが、そんな都合のいい物などない。映画やドラマならクローゼットなどを動かしたりするのだろうが、衣類が詰め込んである状態のものを容易に動かせるわけがない。せいぜい勉強机のイスくらいのものだが、そんなものは焼け石に水である。
 理佳がパニックに陥っていると、ドスンという凄い音がして、ドアから包丁の刃が飛び出した。何度も何度も突き立てられる。それはドアノブの部分を排除しようという意図があった。ドアノブの周りが削り取られていく。
 早智子がこの部屋に入ってくるのは時間の問題だった。唯一の脱出口には殺人鬼がおり、もはや万事休すかと思われた。
 神戸は一体、どうしたのだろう? 杉浦同様、やられてしまったのだろうか? 考えたくはないが、こんな危機的状況では悪い方向にばかり考えが浮かぶ。
 どうにかしなければ。どうにか……。
「!」
 絶望しかけていた理佳だったが、まだ脱出口はあった! 窓だ!
 理佳はサッシの窓を開けた。足場になるような屋根はなく、下にはコンクリートの地面がダイレクトに広がっている。わずか二階ながら、とんでもない高さに思えた。
 ここから飛び降りて近くの交番に駆け込めば、なんとか助かるかも知れない。だが、高所恐怖症ではない理佳でも、さすがに尻込みしてしまう。
 そうこうしているうちに、バキバキッとドアの壊れる音がした。今正にドアノブが取り外されようとしていた。
 躊躇しているヒマはなかった。飛び降りなければ確実に殺されてしまうのだ。
 理佳は窓枠に足をかけた。
 と、同時にドアが破られて、早智子が凄い形相で襲いかかってくる!
「ッ!」
 半ば落ちるような格好で理佳は飛び降りた。落下の感覚に身が縮む。心臓が今にも飛び出しそうだった。
 理佳は足から着地し、勢い余って前に倒れ込んだ。痛みも顧みず、飛び降りた二階の窓を振り返る。早智子が半身を乗り出して、理佳を見下ろすのが見えた。
 理佳は逃げようと立ち上がりかけた。だが、右足首に激痛が走る。思わず、また倒れてしまった。
 どうやら着地のときに捻挫でもしたようだった。これでは逃げられない。
 理佳はすぐにでも早智子が飛び降りてくるのではと恐怖し、頭上を振り仰いだ。
 だが、早智子の姿は消えていた。
 何処へという疑問を浮かべる間もなく、派手な音と窓から落ちてくる物体に理佳は目を見開いた。
 降り注ぐガラスの破片。そして、勉強机のイス。
 理佳は身を丸め、頭を抱えるのに精一杯だった。
 幸運にも窓から落とされたイスは理佳の身体をそれたものの、細かなガラスの破片のシャワーにさらされた。もはや悲鳴を上げる余裕すらなかった。
 殺される。本当に殺されてしまう!
 理佳は絶望を感じた。
 もう一度、二階の窓を見てみる。
 そこに舌打ちする早智子の姿。悔しがっているその様に、理佳は観念するしかなかった。
 死ぬのだ。本当に死んでしまうのだ!
 その刹那だった!
「理佳さん!」
 力強い声が理佳を呼んだ。涙があふれそうだった。
 それが神戸刑事のものだと分かると同時に、銃声が轟いた。
 上半身をさらしていた早智子の右肩が血しぶく。その拍子に、手にしていた文化包丁を取り落とした。理佳のすぐ足下に落ちる。
 神戸は続けざまに発砲したが、早智子はすぐに身を引っ込めていた。
 パトカーのサイレンが近づいているのを理佳は耳にした。多分、早智子を運んできたタクシーの運転手か、近所の住人が通報してくれたのだろう。理佳はホッとすると同時に、全身から力が抜けた。
「大丈夫ですか?」
 銃を手にしながら、神戸が駆け寄ってきた。格闘で傷ついたらしく、右胸の辺りから出血している。それでもさすがは刑事、市民を守る義務を怠ってはいなかった。
 理佳は声が出なかったので、うなずいて見せた。すると神戸も少し安心した表情になる。
 それから数秒も経たないうちにパトカーが到着した。倒れた杉浦刑事を目撃した制服警官たちに緊張が走る。神戸がそれらにテキパキと指示を与えた。
 理佳はその様子を見ながら安堵し、以後の意識を失った……。


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