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鏡の中の女

−2−

 眩しい。
 私は夢うつつな意識の中、瞼の上からも眩しさに顔をくしゃくしゃにして、寝返りを打った。それでも眩しさは追いかけて来るみたいだった。私は観念して薄目を開けた。
「んっ……?」
 なんだか見慣れない部屋だった。どっかの家に泊まったんだっけ?
 部屋の隅に置いてある段ボールの山を見て、ようやく記憶がよみがえってきた。そうだ、私、引っ越したんだ……。
 スローモーな動きで私は起きた。カーテンの合わせ目から、朝の強烈な光が射し込んでいる。私はカーテンを開けた。
「わっ!」
 あまりの眩しさに私は目がくらんだ。
 窓の外は通りを挟んで、向かいに五階建てのビルが建っていた。近代的なデザインで、窓が鏡のようになっている。それが朝日を反射しているのであった。そういえば、私の部屋は西向きで、朝日など射し込むはずがない。だが、この反射だけでも充分、朝の訪れが分かる。
 私は手早く支度を済ませた。苦手な料理に時間を費やすわけにはいかないので、トーストを焼くだけにとどめた。
 出掛けに、玄関前で足を止めた。そこには大きな姿見があった。私が運んできたものではない。元からこの部屋にあったものだ。私はその姿見に自分の身体を写してみた。
 うーん、バッチリ、バッチリ!
 時間がないというのに、私は色々なポーズを取りながら眺めた。
(あれ?)
 ふと、鏡に写っている私の後ろに誰かが立っているように見えた。思い切り私の身体の陰になっているが、確かに誰かが……。髪の長い、真っ赤な服を着た……。
「!」
 私は慌てて振り返った。だが、当然のごとく誰もいない。
「………」
 私は少し気味が悪かったが、窓から充分に朝日の反射が差し込む明るい室内にホッともした。きっと、初めての一人暮らしで、少し神経が過敏になっているのかも知れない。私は自分にそう言い聞かせた。
 私は何事もなかったかのように会社へと出掛けた。
 だが、後から考えれば、この出来事が以後の怪異の始まりでもあったのだ……。



 駅前のバス停から乗車し、私は二十分ほど走ったところにある勤め先に向かった。私の仕事場は、バス・ルームやトイレのショールームで、大学を卒業してからだから、勤めて一年半くらいになる。ショールームという性格上、仕事場は普段からとてもキレイで、快適な環境だった。訪れる客への対応があるため、他の会社よりは女性の比率が高く、皆、和気藹々とした感じがあり、私自身、とても気に入っている会社だ。
 通勤ラッシュに私の身体は押しつぶされそうになったが、尚美と住んでいたときは電車の利用もあったので、バス一本で通勤できるようになったことは私にとって喜ばしい。
 吊革につかまりながら、バスの揺れに身体をゆだねていると、バス前方入口の頭上に設置されたミラーに、なんとなく目がいった。これは運転手から後部出口が眺められるようになっているものだ。私の位置からは、ちょうど私自身の姿を見ることが出来た。
 何気なく所在なげに眺めていた私だったが、後ろに立っていた女性の姿に目が釘付けになった。
 その女性は私とは背中合わせに立っていたので、顔は見えなかった。しかし、長い黒髪、そして真っ赤な洋服という姿を見て、私は急に車内の冷房が強くなった気がした。いや、このすし詰め状態の車内で、いくら残暑が残る九月とは言え、冷房などが効果を発揮するとは思えない。私が寒気を覚えた原因は、明らかに他にあった。
(私の後ろのヒト……)
 出掛けに姿見に写っていた女の人。
 似ている。
 いや、もちろん、姿見で見かけたときも、今、車内のミラーに写っている後ろ姿からも、顔を見たわけではないのだが、なぜだか同じ人のような気がしてならなかった。
 もっと、よく目を凝らしてみる。
 そして私は初めて気がついた。
 この女の人が着ているのは赤いウールのコートだ。
 まだ九月である。どんなに寒がりな人でもコートを着る季節ではない。
 私は喉に渇きを覚えた。
(なんなの……なんなのよ……?)
「幽霊」という言葉が浮かんだ。私はいわゆる霊感などとは無縁の人間だった。しかし、そういうオカルトめいた話は好きで、霊も存在すると信じている。だが、いざ自分が体験することになろうとは……!
 私は怖い反面、その正体を突き止めたい衝動に駆られた。白昼堂々──いや、朝の通勤時間に、このように大勢の人がいる中での出没。怖くないと言えば嘘になるが、少しは勇気を奮い立たせることが可能な状況だった。
 私は意を決して、振り向こうとした。だが──!
 突然、身体が振られるような感覚が襲った。バスがブレーキをかけたのである。私は身構えていなかったために、進行方向となりの男性に思い切り身体を預ける格好になってしまった。
「す、すみません」
 私は慌てて謝罪した。男性は少し眉を寄せたが、怒っている様子はなかった。
 そうこうしているうちに、車内の人波が後部出口へと流れ始めていた。停留場に着いたのである。私は赤いコートの女性を探したが、すでに降りてしまったものか、それとも消えてしまったのか、見つけることは出来なかった……。


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