「ふう……」
化粧室の鏡を見ながら、私はため息をついた。
あれは幻だったのだろうか。
今、こうして鏡を見つめているが、赤いコートの女性など写ってはいない。
もし、あれが幻だとしたら、私はどうかしている。尚美と離れて一人暮らしを始めたから? まさか。生まれて初めての一人暮らしとはいえ、幻覚におびえるまでナイーブな人間だったとは自分でも思えない。
私は洗面台の蛇口をひねり、手を洗い始めた。
とりあえず気にしないようにしよう。まだ、あの赤いコートの女性が幽霊と決まったわけではない。玄関で見かけたのは目の錯覚、バスで見たのも、恐ろしく寒がりな人がたまたまそういう格好をしていただけかも知れない。だいたい、今のところ実害があるわけではないのだ。勝手に自分でおびえているだけ……。
私は手を洗い終えると、鏡に視線を戻した。
「!」
私はギョッとした。誰かが後ろに立っている!
「きゃあっ!」
思わず私は短い悲鳴を上げた。すると鏡に写った人物もびくっと身体を反応させた。
「何よ、小園さん、ビックリするじゃない!」
私の後ろに立つ人物──一年先輩の渡辺潤が怒ったような声を出した。どうやら私がぼんやりして、化粧室に入って来たのに気がつかなかったらしい。
私は胸を撫で下ろすと同時に、自らの失敗に赤面した。
「すみません! ちょっとビックリしちゃって!」
私は渡辺さんに謝った。
「それはこっちのセリフよ。まるで幽霊でも見たような顔よ」
幽霊。そうだ、渡辺さんの言う通りだ。
「ホントにすみません」
「昨日の引っ越しで疲れちゃった? ちょっと顔色が悪いわよ」
渡辺さんはすぐにいつもの気さくな感じに戻っていた。私が仕事場で一番に頼っている先輩だ。美人で仕事もできて、支店長たちからも信頼が厚い。
「だ、大丈夫です」
私は無理に笑顔を作った。こんなことじゃいけないと、思わずお尻の肉をつねった。私が気合いを入れるときのクセである。
「そお? それならいいけど……」
渡辺さんは私の隣に立つと、ポーチから口紅を取り出し、鏡を見ながら塗り直した。女の私が見ても、ときどきその色っぽさにドキリとさせられる。それに気がついたのか、渡辺さんが鏡越しに目線を投げてきた。
「そう言えば、さっき、高原さんって女性の方から、あなた宛に電話があったわよ。折り返し電話が欲しいって」
「尚美から?」
私はもう一度、渡辺さんに謝罪してから化粧室を出て、自分のデスクで携帯電話を使用した。コール二回で尚美が出る。
「もしもし?」
「あっ、尚美? なんか、電話くれたって?」
「もお、携帯電話の電源、切っていたでしょ? だから会社の方にかけちゃったわ」
「ごめん、うっかりしてて……」
「どお、新居の方は? 何か不具合とかある?」
「え? そうねえ……」
「なんかあったら、遠慮なく私に言ってね。なんたって、その物件を紹介したのは私なんだから」
「うん……」
「あずさ? ちょっと元気なくない?」
「うん……」
私は生返事で返した。
尚美に今朝のことを相談すべきかどうか。尚美のことだ、きっと心配するに違いない。
「ホントにどうしちゃったのよ?」
尚美の怪訝な声。私は努めて明るい声を出そうとした。
「なんでもないわ。そろそろ朝礼が始まるから切るね」
「分かった。また自宅の方にかける」
「うん」
「じゃあ」
私は電話を切った。
そして、脱力したように、自分のデスクに突っ伏した。
昼休みになり、私と渡辺さんは行きつけのオープン・カフェでランチを取ることにした。店の中にも座席があるが、今日は天気もいいので外に陣取った。日差しはパラソルが遮ってくれるので、日焼けを気にする必要もない。それぞれ、この店の定番メニューである大きなクラブハウス・サンドイッチを注文し、サラダやコーヒーと一緒に運んだ。
「小園さん、今日はどうしたの?」
食べながら渡辺さんが尋ねてきた。私は進まない食に手も休みがちで、ため息ばかりついていたのだろう。
「いえ、ちょっと……」
「何か悩み事? 私で良ければ相談に乗るけど」
私は一瞬、ためらったが、渡辺さんには話しておこうと、今朝の玄関とバスでの出来事を語った。
私が話し終えても、渡辺さんは黙っていたが、やがて口を開いた。
「私はそういうの信じない人間なのよ。自分で体験したこともないしね。小園さん、自分でも言ってたけど、気のせいじゃないの? 今まで一人暮らしをしたことがなかったから、ちょっと不安になっているだけよ。やがて一人でいることに慣れてしまえば、なんてことないわ」
渡辺さんは私を安心させようとしてくれているのだろう。普段以上に優しい口調で話してくれた。
「私なんか大学に進学するときに東京へ出てきてからだから、かれこれ八年くらいかしら。日本は外国と違って治安もいいし、東京だと隣人と知り合いじゃないとはいえ、いつも誰かが近くにいるわけだし。もちろん、最低限の用心は必要よ。でも、女性の一人暮らしは、そんなに難しい事じゃないわ」
「それは私も分かっているつもりです。てゆーか、私も初めてだけど、やっていく自信がありました。でも、あんなことは初めてなんです……それが単に私の思い過ごしなのかどうか……」
「思い過ごしよ。第一、二度とも鏡越しにしか見ていないのでしょう?」
「ええ」
「だったら何かを見間違えたのかも知れないわ。鏡は左右対称に写るじゃない? つまりそれは普段とは逆に写るって事よ。普段は何気なく見ているものも、逆転した鏡の世界では何か別のものに見えるのかも知れない。それに鏡は光を反射するわ。光のいたずらってことも考えられる」
気休めでも、渡辺さんがそう言ってくれることは嬉しかった。だが、一度固まってしまった恐ろしい考えは、なかなか拭い去れるものじゃない。
「おっと、渡辺さん、ここにいましたか」
私たちの座席へ、やって来る人物があった。円谷光治。ウチの社内報を作っている本社の人間だ。首からカメラを提げている。
「円谷さん、今日はこちらへ?」
渡辺さんが人当たりのいい笑顔で尋ねた。
円谷は少し照れたような様子でうなずく。
「ええ、近藤支社長の写真とショールームの新しい写真が必要でして。今、撮ってきたところです」
「そうですか。ご苦労様です」
「あっ、そうだ。良かったら、渡辺さんも撮ってあげましょうか? どうせ、フィルム残ってるし」
私は円谷が渡辺さんに気があることを知っている。もっとも渡辺さんは邪険にはしないものの、それをさりげなく交わしているようで、円谷が想いを遂げられることはないだろう。
「ついでに小園さんもどお?」
私は「ついで」か。
「せっかくだからお願いしようかしら。ね、小園さん」
渡辺さんがそう言うのでは私が断る理由もない。私と渡辺さんはくっつくようにして並んだ。
「円谷さん、キレイに撮ってくださいね」
もちろん、私はささやかな反撃をすることも忘れない。
「はい、そのままですよ。……チーズ!」
今どき、「チーズ!」とは芸がないが、私は微笑みを崩さなかった。そのとき、ほんのちょっとだけ、赤いコートの女性のことは忘れていた……。