「もう、ダメ。私、あそこにいられない」
私は会社から尚美に電話をかけていた。
結局、あれから一睡もすることが出来ず、私は目を腫らして出社した。渡辺さんは心配そうな顔だったが、幽霊を信じない彼女に相談しても「気のしすぎ」と片づけられてしまいそうで、言い出すことは出来なかった。あと相談できそうなのは、長年、ルームメイトだった尚美くらいだ。
「あずさ、落ち着いてよ。何の事だかさっぱり分からないわ」
尚美はパニックを起こしそうな私に諭す。私は深呼吸を何度か繰り返し、話を始めた。
「出るの、あのアパート……」
「出る?」
「幽霊……女の人の……髪が長くて、赤いコートを着た……」
「………」
尚美は信じてくれるだろうか。私は尚美の言葉を待った。
だが、尚美は黙ったままだ。
私の話を信じて、震えているとか?
それとも……。
「尚美、聞いてる?」
「あっ、ご、ごめん……それで、どうする?」
尚美の声も緊張しているようだった。とりあえず信じてはもらえたらしい。
「どうするって言われても……」
私は思案した。
「アパート、他の所にする?」
「うん……それもお願いしたいけど、今夜、泊まりに来てくれない?」
「今日はダメ。ちょっと忙しくて」
私は親友の言葉にがっかりした。意外な反応だった。
「ごめん、あずさ」
尚美もすぐに後悔したのだろう。謝罪の言葉が出た。
「ううん、しょうがないよ……気にしないで……」
ついこの間まで一緒に暮らしていた仲なのに、なんだかとても空々しい関係になっているような気がした。
「とにかく、新しいアパートの方は探しておくから。それまでホテルにでも泊まった方がいいわ」
「分かった……」
「じゃあ」
私は電話を切った。だが、まだ何の解決にもなっていない。
今夜も、そしてこれからも、あの赤いコートの女に悩まされるのかと思うと、身体の震えを止めることが出来なかった。
携帯電話が鳴ったのは、その刹那だった。
「!!」
私は心臓が止まるかと思ったほど驚いた。だが、着信の表示を見て、心が躍る。
「もしもし」
「よお、あずさ! 久しぶり!」
電話の相手は私の彼氏である永井幹哉だった。半年前に合コンで知り合い、彼からのアプローチを受け入れた形で付き合いだした。旅行代理店に勤務している。
「幹哉、いつ帰ってきたの?」
彼は出張だったはずだ。
「昨日の遅くにな。どうだ、今夜、会わないか?」
「うん、私も会いたい」
私は久しぶりに彼に会えることも嬉しかったが、とりあえず今夜一晩、二人で過ごして、赤いコートの女のことなど忘れてしまいたかった。
「そういや、引っ越したんだよな。悪かったな、手伝えなくて」
「ううん。尚美が手伝ってくれたし」
「良かったら、部屋を見たいな」
「え?」
幹哉の言わんとしていることは分かっているつもりだったが、あの部屋に招き入れていいものかどうか私は悩んだ。もし、幹哉まで巻き込んでしまったら……。
「そ、それは……また今度にしようよ。とにかく今日は外で会おう?」
「まあ、別にそれでも構わないけど」
なんとなく残念そうな雰囲気が伝わってきたが、やむを得ないことだ。
私は幹哉とデートの時間と場所を決めて電話を切ると、深く息を吐き出した。
約束通り、私と幹哉はデートを楽しんだ。
食事をし、普段、あまり飲み慣れていないアルコールも口にした。とにかくイヤなことは全て忘れてしまいたかった。
そのままラブホテルへ向かったのは自然な流れだった。久しぶりに再会した恋人同士なのだから、お互いの肉体を求めあっても不思議はない。
幹哉は酔ってふらつく私の身体を支えながら、ホテルの一室に入った。
「………」
一歩足を踏み入れた途端、なぜか幹哉の動きが止まった。
「どうしたの?」
私は幹哉の顔を見上げた。
押さえられた照明のせいで顔色までは分からなかったが、その表情は強張っていた。
幹哉は何かを振り払うかのように首を横に振った。
「い、いや、何でもない……」
とてもそうとは思えない。飲み過ぎて気分でも悪くなったのだろうか。
とにかく私はベッドまで行こうと、ふらつく足で、幹哉の手を引っ張った。
だが、突然、彼は私の手を振り払った。私は勢い余ってベッドに倒れ込む。酔いで思考も巡らなかったが、幹哉がおびえたような表情で私を見つめているのだけは分かった。
「お、オレ、今日は帰るよ! じゃあ!」
幹哉は慌てたようにドアを開けたまま逃げていった。
私はあまりのことに唖然としていたが、やがて酔いが回って、そのまま瞼を閉じ、泥のように眠った。闇に意識が落ちる間際、彼がなぜ帰ったかを考えながら……。