外はすっかり暗くなっていた。
渡辺さんのアドバイスで、私はあのアパートにまつわる出来事を調べようとした。全ては引っ越しから始まったのだ。あのアパートには何かある。私は尚美に連絡を取ろうとした。
だが、尚美との連絡は付かなかった。
携帯電話は電源が切られていた。それならと勤め先の不動産屋に電話した。ところが尚美は出社していないと言う。無断欠勤だそうだ。
私の知る限り、あのしっかりした尚美が無断欠勤をするとは思えなかった。
とりあえず、電話に出た尚美の同僚に、あのアパートのことを尋ねてみた。すると、なんとも歯切れの悪い答えばかり。担当は尚美なので、他の者では分からないとの一点張りだった。何か隠している。私は確信した。
これ以上、ラチが開かないと思った私は、仕事が終わった後、尚美のアパートに向かった。もしかしたら、連絡が出来ないほど具合を悪くしているのではと思ったのだ。だが、いくら呼んでも、尚美は出てこなかった。そんな私の様子を見ていたらしいアパートの管理人が出てきて、尚美が今朝、出掛けたのは確からしいとのことだった。
じゃあ、尚美はどこへ。
私は尚美の身を案じた。
もしかして、赤いコートの女に関係があるのか?
帰路を歩きながら、私は悪い方向へと考えを巡らせていた。
私から幹哉を奪い、尚美を奪った女の亡霊。
私は腹の底から怒りが込み上げ、ポケットに入れていた心霊写真を握りつぶした。
「出てきなさいよ!」
自分の部屋に帰るなり、私は大声を張り上げた。もちろん、鏡の中に棲む、赤いコートの女に対しての言葉だった。
もう、うんざりだ。終わりにしたい。
私はハイヒールを脱ぎ捨て、部屋に上がると、大きな姿見の前に立った。写っているのは私だけ。
私は玄関に立てていた傘を手にすると、大きく振りかぶって鏡に叩きつけた。
ビシッ
鏡は蜘蛛の巣のようなヒビを走らせて、簡単に割れた。私は二度、三度と、傘を振り上げた。
砕ける鏡に満足せず、私は次の鏡に狙いを定めた。バスルームの鏡だ。
私はバスルームのドアを開け、あの不可思議な文字を残した鏡を叩き割った。
フッ
突然、電気が消えた。バスルームだけではない。部屋の明かりもだった。
私は暗闇におびえ、傘を持った手を止めた。
そのときだった。
いきなり後ろ髪をつかまれ、ぐいっと後ろに引かれた。
容赦ない力。私は痛みに涙した。
「痛い! イヤッ! 何よ!?」
だが、髪の毛をつかむ力はゆるまることなく、私は痛みのあまり、後ろへ後ろへと引きずられた。
(まさか、赤いコートの女?)
衝動的に部屋の鏡を叩き割った私であったが、思いもかけぬ幽霊の実力行使にひるんだ。恐怖に歯の根が合わない。
「イヤッ、イヤッ、やめて……!」
私はバスルームから出され、玄関前の割れた姿見の前まで連れてこられた。
そこで見てしまった!
部屋は停電同然だったが、キッチン前の窓から外灯の明かりがこぼれ、ほのかなシルエットを浮かび上がらせていた。
そして、落ち残った鏡に写った私!
その背後に何者かの影!
髪の長い、コート姿の……。
「イヤーッ!」
私は絶叫していた。
「あずさ、どうしたの!?]
暗闇の中、玄関から女の声がした。聞き覚えのある声だ。それは──
「尚美、助けて!」
私は声を限りに叫んだ。
玄関のドアが開けられるのと、部屋の電気がつくのは同時だった。私は後ろ髪をつかまれていた力がなくなり、その場に崩れ落ちた。
「あずさ!」
中に入ってきた尚美は、心配そうに私の方へ駆け寄ってきた。私は荒い息をつき、尚美の手を握ってポロポロと涙をこぼした。
私と尚美はどちらからともなく抱き合った……。
一時期のパニック状態を脱し、私は暗闇の中で布団をかぶっていた。
隣には尚美が私のベッドを使って寝ている。
こうして並んで寝ていると、同居していた頃を思い出す。ほんの四日前のことだが、なんだか遠い昔のことのように思えた。
私は、今日一日、尚美がどこに行っていたのか尋ねなかった。そして、このアパートについても、どうして突然、尚美がここを訪れたのかも訊かなかった。
ただ、こうして来てくれただけで嬉しかった。なんとなく尚美に元気がないのは気になったが、私たちは親友なのだ。理由を話すときが来れば、いずれは語り合う仲だ。そう信じていた。
「尚美……」
「ん……」
私は尚美に一言だけ言っておこうと思った。
「ありがとう」
「………」
それだけ言うと、私は久しぶりにぐっすり眠れそうな気がした。
しばらくして、今度は尚美が言った。
「ごめんね、あずさ」
それが何を意味するのか私には分からなかった。だが、何があっても尚美を責める気持ちはなかった。
「気にしないでよ、尚美……」
「………」
それから二人は喋ることはなかった……。
やがて──
どれくらいの時間がたったものか──
気がつくと私は眠ってしまったようだった。そんな夢の世界から私を引き戻すものが……。
眩しい。
まただ。
私は重々しげに頭を動かした。
音も聞こえる。
ギシッ ギシッ ギシッ
そして、もう一つの音も。
チョロ チョロ チョロ
私は何度も寝返りをうち、それらを振り払いたかった。
だが、音が消えることはない。
それは近づいてきたりとか、大きくなったりすることはないが、常に、絶え間なく、私の意識を揺り起こそうとするかのようだった。
「尚美……」
私は小声で、隣に寝ているはずの親友を呼んだ。
だが、寝入っているのだろうか。何度も呼んでみたが、尚美から返事はなかった。
私は諦めて、上半身を起こした。
「尚美?」
私は手を伸ばしてベッドを探ってみたが、尚美はいなかった。もぬけの殻である。
なんだかイヤな予感がした。鼓動が早鐘を打つ。
私は布団を跳ね飛ばすと、バスルームへ向かった。
その視界の隅で、やはり割れた姿見が振り子のように揺れていた。
「尚美!」
バスルームのドアを開けると、予想通り、もうもうたる湯気が私の身体を包んだ。それを手で振り払いながら、換気扇のスイッチを探す。あった。
低い電動音が聞こえ初め、湯気は吐き出された。
そして、そこには──
「尚美ーっ!」
全裸で浴槽につかった尚美は、左手首から鮮血を流し、ぐったりと横たわっていた。