女が案内した店は、多種多様な飲食店が詰め込まれた雑居ビルの五階にある、落ち着いた感じのショット・バーだった。暗い照明の中に、灯されたキャンドルの炎だけが浮かび上がっている。客層も若者よりは年輩者が多いようだ。
オレと女はカウンター席の一番奥に腰を落ち着けた。
そして、女はドライ・マティーニを、オレはスコッチを注文した。
「まずは乾杯といきましょうよ」
女はグラスを掲げながら言った。まだアルコールも口にしていないのに、少し陽気になったような感じだ。
「乾杯? 何にだ?」
オレはきっと怪訝な表情をしていただろう。何を企んでいる?
「二人の出会いに」
そのセリフはまともな出会いをしたときにして欲しかった。
「今度はアンタがオレを口説こうってのか?」
「あら、不足かしら?」
「いや。何の目的もなく惰眠をむさぼりながら生きているヤツよりは、死相を顔に浮かべた女の方が魅力的だな」
「じゃあ」
「乾杯」
耳障りのいい音を二人のグラスが奏でた。
オレはスコッチを一気に喉へ流し込んだ。
それを見て、女が目を丸くする。
「何よ、そんなに慌てて飲むことないでしょ?」
もう少し味わえ、と抗議したいらしい。
オレは空になったグラスをカウンターの中にいるバーテンダーに振って見せながら反論を返した。
「こんなうまい酒はこんなときでもないと飲めないんでな」
「しみったれてるわねえ。必要経費で落とそうって言うの?」
「役得だ」
「好きにすれば?」
「そうさせてもらう」
オレは出された二杯目のスコッチも飲み干した。
「お願いだから潰れないでよね」
女が心配そうに言った。
面白い。オレが潰れようがどうしようが、この女に関係ないではないか。むしろ、さっさと別れたかったのではなかったか?
「あいにく仕事中なんでな。酔い潰れることはない」
「そう。なら、いいけど」
女は無関心を装いながら、自分もドライ・マティーニを口にした。
「そう言うアンタは飲める方なのか?」
オレは女に訊いてみた。興味からではない。会話の流れというやつだ。
女は答える代わりに、グラスを空けた。どうやらイケる口らしい。
オレと女は一緒におかわりを注文した。
「これでも大学時代は飲んだ方よ。彼と出会ってからは、そんなこともなくなったけど」
自分で「彼」という単語を使ってから、少し表情を曇らせる。だが、それも一瞬だった。
「そうだ、タバコくれる?」
「ああ」
オレは内ポケットからマルボロを取りだし、女に差し出した。女は一本受け取ると、オレのライターに口許を近づけながら火をつけた。そして、深く紫煙を吐き出す。
「フーッ、久しぶりだと頭がクラクラしちゃう」
「以前は吸っていたのか?」
「ええ。タバコは彼がやらなかったから、私もやめたの。──不思議ね、人間って。相手次第で変わることが出来るんだから」
女はオレの方を見るのではなく、カウンターの中に酒瓶が並べられた棚を眺めていた。
「相手にもよる」
オレの目もバーテンダーの動きを追いながら答えを返す。
「……そうね。あの人だから、私もタバコをやめられていたんだわ、きっと」
女の視線は次第に遠いものへと変わっていった。
オレも一本咥え、火をつける。
バーテンダーが再度、おかわりを持ってきて、ついでに灰皿をオレたちの前に置いた。
「さっきから彼のこと、訊かないのね」
女がポツリと言った。
オレは煙をくゆらせながら、
「訊いて欲しいのか?」
と尋ねた。
女は首を横に振った。
「そういうわけでもないけどね」
「だったら、いいじゃないか」
「私の中では、まだ彼が死んだことを認められないのかも知れない」
「………」
「目の前で死んだって言うのにね……」
「………」
「だから彼のことを話して、泣いて、事実だと認めたいのかも……」
「認めようと認めまいと、アンタはアンタじゃないのか?」
「私は……私はもう死んだも同然よ。死んでしまえば私は消えてしまう。あなたもさっき言ってたでしょ?」
「オレは死にたそうだと言っただけだ。死んでいるとは言っていない。それに、オレは死んだ人間に用はない」
「そもそも私をどうしたいわけ?」
「どうもしない。選ぶのはアンタ自身だ」
オレはそのときだけ、女の目を見つめた。つと、女が視線を逸らす。そして、二杯目のドライ・マティーニをあおった。
「私のすることは決まっているわ」
女は呟くように言うと、スツールから立ち上がった。
オレはその手をつかんだ。
「どこへ行く?」
「トイレよ」
「じゃあ、ハンドバッグは置いていってもらおうか。今、ここで逃げられると困るんでな」
女は文句の一つも言いたい様子だったが、中からおそらく化粧品などが入ったポーチひとつを取り出すと、トイレへと消えた。
オレは女がトイレに行ったのを確認すると、ハンドバッグの中を点検した。目を引いたのは、何やらハンカチに包まれた細長い形状をした品物。もちろん中身を確認した。
それは先が鋭く尖った果物ナイフだった。