「あれ? 桜井さん、まだ残っていたの?」
瑞恵ただ一人残っていた放課後の教室に、一人の男の子がやって来た。見れば、朝のHRで、瑞恵の席について何かを言いかけていた男の子だ。確か「来生」という名字だったか。
来生は真っ黒に日焼けしたスポーツマン・タイプの男の子だった。それでいて利発そうな顔立ちをしており、瞳は光を放っているかのように生き生きとしている。さぞや女の子に持てるタイプだろう。実際、他の女子と会話しても、来生の話題がちょくちょくと出てきていた。
「来生くん、だっけ?」
「うん。来生暁。挨拶がまだだったけど、よろしくね、桜井さん」
「こちらこそ」
親しげに話しかけてくる来生の態度は、瑞恵にとって有り難かった。転校生ということもあるのだろうが、休み時間にあれやこれやと話しかけてくれた女子は多かったものの、どこか余所余所しい感じがしていたのだ。どうやら自分が座っている席に理由があるらしく、何となく尋ねてはみたのだが、皆、その話題になると口をつぐみ、逃げるように去っていってしまった。
結局、今日一日ではクラスに溶け込むことも出来ず、瑞恵はほとほと閉口していた。
だが、来生になら話を聞けるかも知れない。瑞恵はそう思った。
その証拠に、来生は自分から会話を続けてきた。
「オレ、クラス委員だからさ、何か困ったことや分からないことがあったら言ってよ。少しは役に立てると思うから」
「ふーん、来生くん、クラス委員なんだ。うん、そんな感じ。私はね、前の学校で書記だったんだ」
「へえ。こりゃ、いいや。ねえ、ウチの書記もやってくれないかなぁ」
来生の思わぬ提案に、瑞恵は少し驚いた。
「え? だって、もう他の人がやってるんじゃないの?」
もう二学期だ。当然、それぞれの役割は一学期のうちに決まっているはずである。
しかし、来生は大袈裟にお手上げのポーズを取って、
「みんな、クラス委員の仕事イヤがって、やってくれないんだ。だから議事録は片岡先生が書いているんだよ」
「わあ、大変そう」
「うん。だから、桜井さんがやってくれると、すごく助かるんだけど」
来生に頼まれると、断るわけにはいかないような気がした。逆に来生を助けてあげたいと思う。
「私なんかで良ければ……」
瑞恵の答えに、来生は破顔した。
「よし、決まり! 明日にでも、オレから片岡先生に話しておくよ。──ところで、こんな時間まで一人で教室に残って、何をしていたの?」
「うん。これ」
瑞恵はそう言って、黒板の向かって左にある掲示板に貼られた模造紙を指さした。それは一学期に書いたクラスの座席表だ。五年生はクラス替えをしたので、早くお互いの名前が憶えられるよう、最初の課外授業で作成した物だった。名前の部分は画鋲で付けたり外したりできるようになっているので、席替えをしても並び替えが可能になっている。
「私、転校してきたばかりだから、早くみんなの名前を憶えようと思って。みんなは私一人の名前を憶えればいいけど、私はみんなの名前を憶えなきゃいけないでしょ?」
そう言って瑞恵は微笑んだ。それを見て、来生は顔が熱くなるのを感じた。
クラスの女子はもちろん、全校児童を捜しても、瑞恵のような美少女はいないだろう。制服を着れば、中学生くらいに間違えられそうなほどで、来生は生まれて初めて異性を意識していた。
「そ、そんな名前なんか、段々と憶えていけばいいよ。それより、そろそろ帰った方がいい」
美少女を直視していられなくなって、来生は自分の席から鞄を取り上げた。それを見て、瑞恵も帰る気になるが、ふと疑問を口にしてみる。
「ねえ、この私の席のところ、『小栗』って名前になっているけど、この人は誰?」
「!」
思わず、来生の動きが止まった。それを見て、瑞恵が訝る。
「来生くん?」
「……帰ろう」
「え?」
「もう帰ろう!」
来生は足早に瑞恵に近づくと、その手をつかんだ。そして、教室を出て行こうとする。
「来生くん? ねえ、ちょっと、待って!」
瑞恵は机にぶつかりそうになりながら、慌てて来生に歩調を合わせた。
一体、来生はどうしてしまったのか。今までの優しい態度は豹変し、まるで別人になってしまったかのようだ。瑞恵は来生に腕をつかまれたまま、階段を降り、昇降口まで連れて行かれた。
「来生くん、痛い……」
蚊の鳴くような声で訴える瑞恵に対し、来生はようやく手を離した。あまりに力を入れていたので、瑞恵の腕には来生の手の痕がくっきりと残っている。女の子に手荒なことをした来生は後悔の表情を滲ませ、瑞恵に頭を下げた。
「ごめん……乱暴にするつもりはなかったんだ……ホント、ごめん……」
瑞恵は来生につかまれた部分をさすりながら、顔をふせがちにして突っ立っていた。
来生もそれ以上、何と声をかけていいか分からず、二人は沈黙した。
どれだけ下駄箱の前で立っていたのだろうか。
もう、とっくに児童たちは下校してしまっている。校舎内は静まり返っていた。
やがて──
「ねえ、来生くん……」
瑞恵がようやく口を開いた。来生が顔を上げる。
「教えてくれない? 私が座ったあの席に何があるって言うの? 来生くん、朝のHRで私が座ろうとしたとき、止めようとしたでしょ? どうして? 何か理由があるの? クラスのみんな、それを知っているみたいだけど、誰も私に教えてくれない……ハッキリ言ってよ、あの席に何があるのか」
「………」
来生は躊躇した。瑞恵に話してもいいものかどうか。瑞恵には何でも力になると言った手前、彼女のために何でもしたい気持ちはあったが、これを話していいものかというためらいもある。未だに五年三組全員の記憶に残っている忌まわしい出来事。だが、瑞恵もその五年三組に転入してきた新しいクラスの仲間だ。ずっと隠し続けることは、彼女を本当の意味で受け入れることにはならないのではないか。来生の心の中では、凄まじい葛藤が渦を巻くようだった。
「……分かったよ」
来生は観念したように話し始めた。瑞恵に対し、どう話したらショックにならないか頭の中で考えるが、繕っても仕方ないとも思う。なるべく感情的にならず、静かに説明しようとするのが精一杯だった。
「桜井さん、あの席には元々、小栗吉乃って娘が座っていたんだ……」
「小栗さん……」
「でも、今はもういない……」
「いない? 私みたいにどこかへ転校したとか?」
「いや、違うんだ。彼女は……彼女はあの席──桜井さんが今座っている席で死んだんだよ……」