影はゆっくりと二人の方へと近づいてきた。それなのに相変わらず顔は見えない。
「小栗さん、なの?」
瑞恵の言葉は、小栗吉乃に向けたものだったか、それとも来生に対してのものだったか。
どちらも答えず、影はすぐそばまでやって来た。
「よせ!」
来生は瑞恵をかばうように、影に対して背中を向けて遮った。瑞恵に触れさせないつもりだった。
だが、その来生に向かって、一脚の椅子が滑ってきた。それが来生のふくらはぎを直撃する。アッという間もなかった。来生は膝から崩れるように椅子に座り込み、瑞恵から手を離してしまう。
「来生くん!」
「桜井さん!」
来生を座らせた椅子は、そのまま方向を変えて滑り、二人を引き離した。瑞恵は来生を追いかけようとしたが、すぐ近くまで影が忍び寄っている。
「!」
影は瑞恵に手を伸ばした。瑞恵は払いのけようと頭では考えたが、身体は固まったように動かない。腕をつかまれた。
「キャッ!」
その手は異様に冷たかった。その冷たさが一瞬にして全身に伝わり、瑞恵は身体の芯から凍える。意識が遠のきそうになった。
「桜井さん!」
来生の声で、瑞恵は我に返った。思考を働かせようと、強く頭を振る。
しかし、瑞恵の腕をつかんだ影はその手を離さず、グイグイと窓の方へ引っ張っていった。
来生はようやく椅子から立ち上がると、瑞恵の方へ駆け寄ろうとした。すると今度は、教室の机が動き出し、まるでバリケードのように来生を取り囲み始める。だが、そこは運動神経のいい来生だ。うまくタイミングを計ってジャンプし、机を乗り越える。
ところが敵も然る者。来生が机を乗り越えるのを見越して、第二波が襲いかかった。さすがの来生も着地を狙われてはかなわない。机に挟まれるようにして、来生は転倒した。
「うわぁっ!」
「来生くん!」
瑞恵は来生の身を案じた。だが、そうこうしているうちに窓際にまで連れてこられてしまう。窓からは雨と風が激しく吹き込み、瑞恵は一瞬にしてズブ濡れになった。
「ねえ、あなたは小栗さんなの!? どうして私をこんな目に遭わせるの!? 何か私に恨みでもあるの!?」
顔に髪の毛が貼りつくのも構わず、瑞恵はなおも窓まで引っ張っていこうとする影に、必死に問いかけた。しかし、影は何も答えない。
「キャッ!」
腕を思い切り引かれ、瑞恵は上半身を窓に突っ込んだ。落ちそうになり、慌てて身を引こうとする。だが、それを頭から押さえつけられた。凄い力だ。
五年生の教室があるのは校舎の三階。落ちれば死ぬとは限らないが、ただでは済まないだろう。瑞恵は恐怖にもがいた。
「よせ、コイツ!」
ようやく机のバリケードを乗り越えて、来生が駆けつけた。力ずくで瑞恵から影を引き離そうとする。
影はそんな来生を振り払った。小学五年生とは言え、体力には自信のある来生だったが、跳ね飛ばされて、ビショビショになった教室の床に倒されてしまう。
その隙に影は、瑞恵の両脚を下からすくうようにして、窓の外へ放り投げた。
「キャアアアアッ!」
瑞恵の身体は一回転するように、窓の外へと消えていった。