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悪意の教室

−10−

「来生くん」
「!」
 小栗吉乃とは違う声に、来生は後ろを振り返った。立っていたのは担任の片岡寿美子だ。そっと忍び寄るような感じで、まったく気がつかなかった。
「先生! ちょうど良かった! 桜井さんが落ちそうなんです! 手を貸してください!」
 当然ながら、来生は片岡先生に助けを求めた。だが、片岡先生はすぐに救いの手を差し延べようとはしない。
「先生!」
 来生は不審なものを感じながらも、もう一度、片岡先生を呼んだ。ようやく、すぐ後ろまで来てくれる。
 片岡先生は背後から来生の腕に手を添えようとした。二人がかりならば、瑞恵を引き上げることも出来るだろう。しかし──
 突然、片岡先生は来生の腕を振りほどこうという暴挙に出た。その拍子に大きくバランスを崩し、瑞恵は校舎の外壁に掛けていた足を滑らせてしまう。
「キャアアアッ!」
 ふわっとした浮遊感に恐怖の悲鳴を上げる瑞恵。
「くっ!」
 来生は歯を食いしばり、再び片方の腕だけで瑞恵をつかんだ。かろうじて踏みとどまる。
「先生、何をするんですか!?」
 さすがに来生も声を荒げた。人の命がかかっているのだ。無理もない。
 だが、次に口にした担任教師の言葉に、来生は戦慄した。
「手を離しなさい、来生くん」
 それは担任教師という以前に、人間として信じられないセリフだった。
 今まさに落ちようとしている人間がいるというのに、それを見捨てろと言うのだ。一体、どういうつもりなのか。
 来生は瑞恵の腕をつかむのに精一杯で、すでに後ろを振り向く余裕はなくなっていたが、声を張り上げるようにして、
「手を離したら、桜井さんが死んでしまいます! それでもいいって言うんですか!?」
 と、叫んだ。
 それでも片岡先生は動じなかった。それどころか、
「構わないわ。むしろ、私はそれを望んでいるのよ」
 と、無感情に言い切った。
 それは来生にとって、小栗吉乃が瑞恵の死を望むことよりも空恐ろしかった。
「何をバカな……。先生、正気で言ってるんですか!?」
 片岡先生は、一旦、来生の背後から離れると、適当な机を見繕って、その中をあさりだした。
「正気よ。ねえ、来生くん。あなた、桜井さんのこと、好きでしょ?」
 こんな状況でそのようなことを訊かれ、来生は答えに窮した。
「今、そんなことに答えている場合じゃないでしょ!」
「来生くん。自覚がないかも知れないけど、あなたはたくさんの他の女子に好かれているわ。まあ、それも無理はないわね。あなたは勉強もスポーツもできるし、ルックスもいい。性格も今どきとしては珍しいくらいピュアだわ。そんな男の子を放っておく女の子はいないでしょう。私も来生くんのこと、好きよ」
 喋りながら、片岡先生は机の中から目的の物を探し出したのか、手を引き抜いた。そして、再びゆっくりと来生の背後に近寄っていく。
「先生ね、あなたには世の中に大勢いる普通の男たちみたいに汚れて欲しくないの。そのピュアさをそのまま持っていて欲しいのよ。先生の言っている意味、分かる? ピュアさを保つには、汚れた女たちと付き合っちゃダメ。同じ小学五年生でも、最近の子たちはあなたと違って、すっかり世間に毒されているわ。あなたが好きだと思っている桜井さんもそう。やめておきなさい。ああいう可愛い顔をしている女の子ほど、男を汚していくものなのよ」
 片岡先生は後ろから抱きしめるように、来生の背中に身体を密着させた。衣服越しにも片岡先生の柔らかな胸を感じる。来生はドギマギしたが、そのような言葉に耳を傾けるわけにはいかなかった。
「だからって……だからって、桜井さんを見捨てていいわけがない!」
「いいのよ! 私が許すわ! 私がぁ! 来生くん、お願いだから先生の言うことを聞いて頂戴。そして、私だけのものになって!」
「ダメです! そんなこと出来ません!」
 来生は首を大きく横に振って抗った。その背中に、片岡先生は爪を立てる。来生は薄いTシャツ一枚だったので、痛みは直に感じられた。それでも来生は瑞恵の手を離さない。
 瑞恵はそんな二人のやり取りを聞いて、どうしたらいいのかと懸命に頭を働かせた。だが、こんな腕一本で窓からぶら下がっている状況では何もできない。
 つい先程までは小栗吉乃の霊が瑞恵を殺そうとしていた。そして、今度は担任の片岡寿美子だ。ここまで他人に恨まれているというのは、まだ十歳の瑞恵にはショックが大きすぎた。自分はそんなに邪魔な存在なのだろうか。
 しかし、顔を上げてみれば、その瑞恵を必死に助けようとする来生の顔がある。彼だけは瑞恵を見捨てない。
「桜井さん、頑張って!」
 来生はもう一度、離れてしまったもう片方の腕を伸ばそうとした。片腕だけでは、落ちるのも時間の問題である。それを見て、瑞恵も反対の腕を伸ばす。
「……聞き分けのない子には、お仕置きよ」
 片岡先生は、やおら手に持っていた物を来生の腕に押し当てた。
「わああああっ!」
 来生が悲鳴を上げて、顔を歪ませる。
 瑞恵は片岡先生が来生の腕に押し当てた物を見て、短く悲鳴を発した。
 来生の腕には図形の円を描くときに使うコンパスの針が突き刺さっていた。先程、片岡先生が物色していたのは、これだったに違いない。
 刺された箇所から血が流れた。それは腕を伝い、握りしめ合っている瑞恵の手にまで達する。来生は顔を歪めたまま。それでも瑞恵の手だけは離さない。
「来生くん。あんまり先生を困らせないで。本当はあなたにこんなことをしたくないのよ」
 もし、片岡先生の腕が瑞恵まで届けば、瑞恵を刺していたに違いない。来生の痛みを察し、瑞恵は涙がこぼれた。
「先生……もう、やめてください……。来生くんが可哀相です……」
 瑞恵は嘆願した。そんな瑞恵に、片岡先生は殺気のこもった視線を向ける。
「ならば、あなた一人で落ちなさい! 今すぐ来生くんの手を離して、落ちなさい!」
 片岡先生の言葉に、瑞恵は虚を突かれた思いがした。そうだ、自分が落ちてしまえば……。
「ダメだ、桜井さん! 手を離すな!」
 来生の叱咤激励するような説得に、瑞恵は我に返り、危険な考えを振り払った。ここで片岡先生の言いなりになっては、自分の負けを認めてしまうことになる。片岡先生の言い分が、決して正しいとは思えない。間違っている。ねじ曲がっている。それに屈するわけにはいかなかった。
 二人の手は、より固く結び着け合った。
「来生くぅぅぅぅんっ!」
 片岡先生はそんな二人に嫉妬の炎を燃やし、突き立てていたコンパスで傷口を広げるようにこねくり回した。激痛に来生は絶叫する。
「来生くん!」
 痛々しい来生に対して、瑞恵は何もしてやれなかった。自分のために片岡先生の責めを耐え抜く来生に、申し訳なさで、また涙が出てくる。それでも瑞恵は来生の手を離すわけにはいかなかった。少なくとも来生の方から瑞恵の手を離すまでは。ここで瑞恵が離してしまえば、来生には一生悔いが残るだろう。
 瑞恵と来生の固い結束に、片岡先生は業を煮やした。


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