「どうして……どうして、こんな子をかばうのよ!?」
片岡先生は、ひとまず来生の腕からコンパスを抜いて、身体からも離れた。そして、よろよろと後ずさる。窓から浴びた雨のせいで、引っ詰め髪は所々ほつれ、ブラウスも濡れて肌に貼りついた状態だ。まるで片岡先生の狂気をそのまま表しているかのように。
「私以外に、来生くんに近づく女は許せないのよ! 桜井さんも、そして小栗さんもね!」
「小栗さんも?」
片岡先生の口をついて出た思わぬ名前に、来生は問い返した。それは一体どういうことか。
「小栗さんはね、私の所へ相談に来たのよ。来生くんのことが好きでたまらないってね。ふふふ、笑わせるわよね。彼女なんか、全然、来生くんと釣り合うわけないじゃない。勉強は中の下、運動神経は鈍く、容姿は人並み──いえ、それ以下。そんな彼女まで来生くんが好きだなんて。でも、彼女は本気だった。本気であなたが好きだった……。私は、なんて身の程知らずな女なのかって思ったわ。その場で笑ってやりたかった。でも、それよりもクラスみんなの笑い者になってもらおうと思ったのよ」
片岡先生はそこまで話して、髪を掻き上げた。それが結び目をほどき、全体をほつれさせることになる。長い髪に顔を半分隠した片岡先生の顔は、幽霊も格やと思わせる凄惨さがあった。
「私は夜、学校に残って、小栗さんの席がある床にワックスがけをしたわ。それも入念に、滑りやすいようにね。彼女には日頃から、体重を後ろにかけて座るクセがあった。以前から危ないと注意したこともあったのにね。だからワックスを塗りたくって、授業中、彼女にひっくり返ってもらおうと思ったのよ。そして、クラス中の笑い者になればいいと。あなたにも笑われれば、きっと彼女も好きだなんて面と向かって言えなくなると思って。……でも、私の予想通り、小栗さんはひっくり返ったけど、効果は予想以上だった。まさか、あんな事故になって死んでしまうなんてね。でも、これも彼女が自分の身の程をわきまえていなかったから。自業自得ってものよ」
「………」
衝撃の真実だった。小栗吉乃の事故死は、片岡寿美子に原因があったのだ。しかも、それに対しての悔恨など一切感じていないとは。
瑞恵は恐ろしさに言葉を発することが出来なくなった。だが、ショックは来生の方にこそ大きいだろう。瑞恵にとっては二週間くらいの付き合いだが、来生にとっては一学期からの担任教師なのだ。
「じ、じゃあ、桜井さんにも同じように嫌がらせを?」
そんな話を聞きたくなかったが、来生の正義感が確認させた。
片岡先生は笑う。
「そうよ、昨日の夜に彫刻刀で『死ね』って掘ったのは私。でも、あのノートの落書きは違うわよ。あれはきっと、来生くんのことが好きな他のクラスの女の子がやったんでしょう。結局、私だけでなく、他にも同じ様なことを考えている人間は多いってことよ」
「そんな……」
来生も瑞恵同様、人間不信になりそうだった。そんなことをする人間が身近にいるなんて。
「……だからね、もう一人も二人も同じなのよ。私の来生くんを汚す人は死んで欲しいの。それだけよ。──ただ、それだけ!」
片岡先生は自白を終えると、今度こそ瑞恵を落とそうと襲いかかってきた。いや、そのとき来生ごと落とすつもりだったのかも知れない。
その刹那──
突風が教室内に吹き込み、机の中にあったプリント類や掲示物が舞い散った。その一枚が、偶然なのか故意なのか、片岡先生の顔面に貼りつく。紙は水気をたっぷり含んで濡れていたために、片岡先生の顔面から容易に剥がれなかった。
「むぐっ……もがっ!」
濡れた紙は片岡先生の目も鼻も口も塞いでいた。目が見えないのはもちろんだが、呼吸も困難になる。片岡先生は身体をよろめかせながら回転し、来生たちがいる窓とは違う窓の方へと寄っていった。
来生が危ないと思ったのも束の間、片岡先生は全開になっている窓に突っ込んだ。その拍子に、顔に貼りついていた紙が剥がれるが、もう遅い。片岡先生の身体は、窓の外へと倒れ込んでいった。
「キャアアアアアアッ……!」
思わず耳を塞ぎたくなるような悲鳴が尾を引いたが、鈍い激突音のあとに、突然、それは途絶えた。