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来生と瑞恵は恐る恐る、下を見下ろした。
アスファルトの地面には、担任教師、片岡寿美子の身体が投げ出されていた。四肢は糸を断ち切られた操り人形のように不自然に折れ、ピクリとも動かない。激しい雨のせいで、片岡先生の生死は確認できなかったが、三階の高さから落下しては無傷というわけにもいかないだろう。思わず二人は喉を鳴らした。
しかし、そうやっていつまでも眺めているわけにもいかなかった。瑞恵をつかむ腕は、すでに感覚をなくしかけている。
来生は両手で瑞恵をつかむと、最後の力を振り絞って引き上げようとした。瑞恵も再度、校舎の外壁に足をかけて、よじ登る。悪戦苦闘の末、瑞恵の身体が五年三組の教室に引き上げられると、二人は荒い呼吸をついて、床に寝転がった。
「あ、あ、ありがとう……」
まだ言葉を発するには苦しかったが、瑞恵は命の恩人である来生に礼を述べた。来生もやっと笑顔を見せる。
「よかった……本当に良かった……」
ようやく呼吸が楽になったところで、来生は立ち上がり、教室の窓をすべて閉めた。激しい雨音が、ようやく静かなものになる。
「来生くん、腕、大丈夫?」
瑞恵は片岡先生にコンパスで刺された来生の傷を気遣った。来生は傷口を押さえたが、
「大丈夫だよ、これくらい」
と言って、瑞恵を安堵させた。
来生は、ふと、一枚の紙を拾い上げた。この紙が片岡先生の顔に貼りついたからこそ、二人は助かったのだ。その紙である証拠に、片岡先生が引き剥がそうとしたときに出来た破れ目があった。
その紙に目を通した来生は、ハッとした表情を見せた。そして、瑞恵に手渡す。
「小栗が助けてくれたんだ……」
それは今まで教室のどこにあったのか。死んだ小栗吉乃のテストの答案だった。これを偶然として片づけることは出来ないだろう。とっくに整理されたはずの答案が教室内に残っていること自体、説明がつかない。
きっと小栗吉乃の霊は、自分が死んだ原因が片岡先生にあったと知らされ、復讐したに違いない。そして、来生が瑞恵を好きだと言った告白を、冷静に受け止めたのだ。でなければ、今頃、瑞恵は小栗吉乃の霊によってどうなっていたか分かったものではない。
瑞恵は小栗吉乃の答案を胸に抱きしめるようにし、心の中で感謝した。
「そうだ、片岡先生をあのままにしておけない!」
来生はひどい仕打ちをされたにも関わらず、落ちた片岡先生の身を案じた。それが来生らしさでもある。
瑞恵もこのまま片岡先生を放っておくわけにはいかなかった。
二人は教室から廊下に出ると、階段を降りて、傘も持たずに大雨が叩きつける外に飛び出した。
来生は五年三組の教室の真下辺りを見当つけて駆けつけたが、そこに片岡先生はいなかった。先を見通しても、辺りを見渡しても姿がない。
二人は嫌な予感がした。
「どこへ消えたんだろう?」
思わず、瑞恵は来生の腕にしがみついた。来生はその手に自分の手を重ねる。
「帰ろう」
「え?」
「急いで学校から離れるんだ!」
来生は瑞恵の返事も待たずに、腕を引っ張った。
片岡先生のことを他の先生に話すべきだったかも知れないが、本人がその職員室で待ちかまえている恐れもあった。今はとにかく学校から離れることが大事だろう。
二人は鞄も教室に置きっぱなしだったが、構わず校門の方へと走った。服がびしょ濡れで、体が重く感じるし、足下はぬかるんでいる。自分たちの動きが遅くなったような気がした。早くしないと。そんな焦燥感に駆られ、二人は何度も背後を振り返った。
実際の時間とすれば、それほど長くはかからなかっただろう。二人は校門を走り抜けた。勢い余って、道路の反対側まで到達する。
そこで気が抜けたのか、瑞恵がへたり込んだ。
「大丈夫、桜井さん?」
「う、うん」
「さあ、行こう」
来生が手を差し延べる。
すると雨音に混じって、奇声が聞こえてきた。それは徐々に二人の方へと近づいてくる。
「──片岡先生!」
二人は恐怖に身がすくんだ。片岡先生がまだ手にしていたコンパスを振りかざし、校門から飛び出してこようとしている!
その形相は、まさに悪鬼のごとし。落ちたときに負傷したらしく、頭から出血し、顔から胸のブラウスまで朱で染めている。それでいて腕や足には大怪我を負っておらず、向かってくるスピードと迫力は凄まじい。
「逃げるんだ!」
来生はとっさに瑞恵の手を引っ張ったが、すぐには立ち上がれなかった。その遅れが致命的になる。
「あああああああああーっ!」
訳の分からない叫びを上げて襲いかかる片岡寿美子。
と、その時──
強烈なヘッドライトの光に目が眩み、車のクラクションが鳴ったのと、片岡先生の身体が空中に跳ね飛ばされるのは同時だった。
その瞬間は、不思議にもコマ落としのように、克明に見ることが出来た。
かなりのスピードで走ってきた車は、突然、飛び出してきた片岡先生に気づくのが遅れ──雨で視界が悪くなっていたせいもあるだろう──、急ブレーキも間に合わず、まともに激突してしまったのだ。片岡先生の身体は空中で回転。その表情からは悪相が消え、何が起こったのか自分でも分からないようだった。
グシャリ、と片岡先生の身体が地面に叩きつけられるや、時間は元の流れを取り戻した。片岡先生の身体は地面に叩きつけられても、その衝撃の凄まじさを証明するかのように横転を続け、腕と脚が身体に巻き込まれるよう不自然に折れ曲がっていく。幾重にも骨折の音が聞こえたような気がした。
思わず瑞恵は目を覆った。
車から約二十メートル先の地点で、片岡先生の身体はようやく止まった。だが、即死であることは確認すべくもない。さらに手に持っていたコンパスは心の臓を貫いていた。
車の運転手は慌てて飛び出してきた。そして、跳ね飛ばしてしまった片岡先生と、道路の脇で抱き合うようにしている瑞恵たちの方を見る。
「一体、何がどうなっているんだ……?」
すぐには気がつかなかったが、来生は車の運転手の顔に見覚えがあった。すると向こうも来生に気づく。
「ああ、君は……」
多少、放心したような感じではあったが、同じく運転手の方も来生の顔に見覚えがあったらしい。
その車の運転手は、死んだ小栗吉乃の父親だった。来生とは葬儀の時に顔を合わせている。
「おじさん、どうしてここへ?」
来生は意外な成り行きに茫然としながらも、小栗吉乃の父親に尋ねた。
小栗吉乃の父は、車と轢いてしまった片岡先生の死体を交互に見やりながら、
「家に帰る途中、ケータイに電話が入った。死んだ娘からだった。『お父さん、助けて! 早く学校に来て!』と。娘の切羽詰まった様子に、私はすでに死んでいることも忘れて、ここへ駆けつけたのだ。すると、こんなことに。──なあ、君。私は今でも娘が事故死したなんて信じられないんだよ。君なら何か知っているんじゃないかい? 同じクラスだった君なら……」
来生はどうやって小栗吉乃の父親に説明したらいいか悩んだ。
だが、これだけは言えるだろう。
彼は娘のカタキを討ったのだ、と。
激しい雷雨は惨劇を覆い隠すかのように、長く長く降り続いていた。