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泥御坊

−3−

 上機嫌でオレが脱衣所から出ると、玄関の方から複数の声が聞こえてきた。ひとつは奥さんのものだが、もうひとつの声は男のものだ。玄関の方へ行ってみると、どんな会話か明確になってくる。
「ねえ、奥さん。そろそろ考えてくれませんか」
「そんなことを言われても困ります。前にもちゃんとお断りしたはずです」
「そこをなんとか。決して悪い話じゃないと思うんですよ」
「私の一存では決められないことですし……」
「何を言っているんです。お婆さんでは話になりませんよ。だから奥さんに話しているんじゃないですか」
「でも……」
 なんだか男の方は執拗に食い下がり、奥さんは困っている様子だった。ここは出番だ。
「どうしたんですか?」
 オレはわざと足音を立てながら、大股で玄関へ行った。思惑通り、二人の注目が集まる。
「お巡りさん」
 奥さんはオレの顔を見て、ホッとしたような表情を見せた。逆に男は奥さんの他に誰かが出てくると思っていなかったのだろう。少し慌てた様子だった。
「おまわり?」
 男は額が広い脂ぎった中年男だった。黒いスーツケースを板の間に置き、身体をひねったように座っている様は、何かのセールスマンのように見える。
「そちらは?」
 オレは相手にナメられないよう、なるべく威厳が出るような喋り方で奥さんに訊いた。
「“いまだや旅館”の馳さんです。なんでも、この村に温泉旅館を作りたいとかで」
 全国にチェーン展開する“いまだや旅館”の名前はオレでも聞いたことがある。それにしても、こんな寒村にまでやって来るとは。
 いまだや旅館の馳は、オレに愛想笑いを浮かべた。
「そうなんですよ。出来れば、ここの土地を高く買い取って、新しい旅館を建てたいと思いましてね。そうすれば、この村も賑わいますし、佐伯さんももっと便利なところへ引っ越せるじゃないですか」
 馳は暑いのか、ハンカチで顔を拭きながら、オレに説明した。なるほど、すでに源泉を掘り当てているここを買い取れば、改めて温泉を探す手間も費用もかからなくて済むというわけだ。
「ですが、佐伯さんはお断りしたと言ってますよ」
 オレは馳を睨むようにして言った。馳がひるむ。
「い、いや、そこをなんとか曲げていただきたくて、こうして足繁く通っているわけなんですが……」
 馳はどっと汗が吹き出たように、ハンカチで拭く動作が大きくなった。ここは、もう一押しだ。
「あまり、しつこいようですと、私も口を挟まずにいられないのですが」
 オレはズイッと半歩、前に出た。すると馳は置いていたスーツケースを手にして、そそくさと立ち上がる。
「いえ、そんな、滅相もありません! ただ、もうちょっと考えていただけると──」
 馳の弱々しい最後の抵抗に、オレはわざとらしく咳払いをして見せた。それで観念したらしい。断っておくが、オレは決して見てくれが強面な男ではない。馳のヤツが勝手に萎縮しているだけだ。ひょっとすると、馳のしつこさに辟易した奥さんが、オレを呼んだと考えたのかも知れない。それはそれで好都合だ。
「では、今日はこの辺で」
 馳はオレが何かするんじゃないかとビクビクしながら、佐伯家から退散していった。奥さんにしつこかった割には、意外と気が小さい男だ。
 馳を追い払って、奥さんはようやく胸を撫で下ろしたようだった。オレに深々とおじぎする。
「ありがとうございました。お巡りさんがいてくれて、助かりましたわ」
 さすがにオレは照れた。
「いや、大したことはしていませんよ」
 でも、奥さんから感謝されて、悪い気はしない。
「この家には女子供しかいないので、向こうも狙いやすかったようで」
「え? 女子供しかって……ご主人は?」
「夫は昨年、亡くなりました」
 表情に陰を落として、奥さんは答えた。
 つまり、未亡人?
「そ、そうなんですか。それは今まで、ご苦労されたことでしょう」
 オレは顔がほころびそうになるのを懸命に堪えた。イカン、イカン。奥さんの表情を見ると、まだご主人のことを忘れられないみたいだ。ここで早まってはいけない。
「今は息子と夫の母と三人で暮らしているんです。義母は一人息子だった夫が亡くなってから、床に伏せがちになってしまって。私が面倒を見て上げないと、他に頼れる親類がいないんです」
 そこまで話して、奥さんは思い出したように、はにかんだ。ホント、子持ちの未亡人には見えない。まだ女子大生で通るのではなかろうか。
「やだわ、私ったら。お巡りさんにこんなことまで話して」
「いえ、別に。村の人たちのことを知っておくのも、駐在の役目ですから」
 オレはもっともらしいことを口にしたが、知りたいのは奥さんのことだけであるのは言うまでもない。
「そうだ。お礼に夕飯をごちそうさせてください。もし、ご迷惑でなかったらですけど」
 奥さんの申し出に、オレは有頂天になりかけた。
「迷惑だなんて、そんな! でも、奥さんの方こそ、いいんですか?」
「義母はさっきも話したとおり寝たきりなので、いつも拓哉と二人だけの淋しい食事なんです。それに拓哉には、お巡りさんにしたことをちゃんと謝らせないと」
 理由はどうあれ、奥さんの手料理が食べられる。想像して、顔が緩みそうになった。
「お巡りさん、一度、交番に戻られるんでしょ?」
 上の空になりかけたところで奥さんから言われ、オレは現実に引き戻された。そうだった。まだ勤務中なのだ。それに自転車も村の外れに置きっぱなしだ。オレは慌てた。
「すみません、すっかりお邪魔してしまいまして。着替え、ありがとうございました」
 オレは奥さんに挨拶して、お暇しようと思ったが、靴が見当たらず、探した。
「あっ、靴も濡れていたので、裏の方で乾かしています。とりあえず、この下駄でお帰りください」
 奥さんはそう言って、男物の大きな下駄を出してくれた。きっとこれも亡くなった旦那の物だったに違いない。
「お借りします」
 オレは会釈して、下駄を履いた。
「それじゃあ、お巡りさん。夜、お待ちしていますね」
 ニッコリと微笑んでくれる奥さんは可憐の一言に尽きた。オレは行きかけて、足を止めた。
「奥さん、オレ、粕谷と言います。粕谷淳一です」
「粕谷さんですね? 私は佐伯加絵子です。よろしくお願いしますね」
「はい!」
 交番への帰り道、オレはどうやって帰ったか憶えていなかった。


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