「お巡りさん、こっち、こっち」
「た、た、拓哉、ちょっと待ってくれよ」
翌日、オレは拓哉の案内で山道を登っていた。昨日は、急な斜面を登坂させられて死んだが、今日はちゃんとした道を辿っているにも関わらず、やはり息が上がっていた。それに引き替え、拓哉は慣れた道なのか、オレよりも三十メートルは先を歩いている。イカン、完璧に運動不足だ。
オレは身体を起こして、額の汗を制服の袖で拭い、いっぱいの酸素を吸ってから、再び山道を登り始めた。こんなことなら、もっと動きやすい格好で来るべきだったかも知れない。とはいえ、職務中である。まあ、その職務中に子供と山へ遊びに来ているのも問題だろうが。
登り始めて三十分くらい経っただろうか。ようやく目的地の山寺が見えてきた。山の中にあるだけあって、うらぶれた感じがする。大きさも大したことなく、ちょうど拓哉の家くらいだろうか。家ならば大きく、寺ならば小さいといった具合だ。門はなく、山の狭い山腹に、うち捨てられたような感じがする。本当に誰かいるのかと首を伸ばす仕草をしていると、中から袈裟をかけた和尚が姿を現した。
和尚と言うから、どんな爺さんかと想像していたら、まだ三十半ばと言ったところではあるまいか。体格的にはオレよりもがっしりとしている感じだ。
「和尚さん!」
拓哉は親しげに和尚へ駆け寄った。和尚も拓哉の来訪を歓迎する。
「おお、拓哉。また“宇宙人”を見に来たのか?」
「うん!」
「でも、村の誰にも、このことは言ってないだろうな?」
「言ってないよ。ママにもね。でも、今日は友達を連れてきたんだ」
「ほお、友達?」
「こんにちは」
オレは帽子を脱いで、和尚に挨拶をした。和尚も会釈をする。
「昨日、臨時の駐在として来ました粕谷淳一と言います」
「ああ、そう言えば、誰か代わりの方が来ると聞いていましたが、あなたでしたか。私はこの泥象寺<でいしょうじ>の住職で、臼井と申します。昨日はこの寺にこもっていて、挨拶が遅くなりました」
「いえ、とんでもありません。和尚さんは一人でここに?」
「ええ。この寺には私一人だけです。でも、まあ、昼間はよく村へ降りて、村長や畑仕事を引退したお年寄りを相手に、世間話や将棋の相手などをさせてもらっていますので、退屈はしませんけど」
「和尚さん、今日はこのおまわりさんにも見せてあげて欲しいんだ。いいだろう?」
拓哉は大人同士の挨拶に退屈さを隠しもせず、臼井和尚に頼み込んだ。拓哉の願いに、臼井和尚は苦笑する。
「アレは二人だけの秘密じゃなかったのか?」
「今日から三人だけのヒミツだよ!」
「はっはっは、拓哉には敵わないな。よし、あのお巡りさんも入れて、三人だけの秘密だ」
「わーい、わーい」
拓哉は両手を叩いて喜んだ。
オレだけ二人の会話の意味が分からない。
「あのぁ、何の話だかさっぱり……」
「お巡りさん、どうぞ中へ。拓哉の友達なら、特別に見せてあげますよ。──“泥御坊”をね」
「ど、“泥御坊”?」
オレはつい、声高に尋ね返してしまった。臼井和尚はニヤリとする。
「もう、“泥御坊”の名前を知っているとは。さあさあ、中へ」
オレは臼井和尚に促されるまま、山寺の中へと入った。
薄暗い本堂の中には、一応、それなりの仏像が鎮座していた。阿弥陀如来だろうか。ちょうど、小柄な人間一人が座ったくらいの大きさだ。ただ、相当に古いものか安物らしく、細かい痛みがあちこちに目立つ。供物には村の者からなのだろう、色とりどりのフルーツではなく、ジャガイモや白菜などの野菜がゴロゴロと供えられていて、いかにもこのうらぶれた山寺にふさわしい感じがした。
オレは仏前の凛とした空気にやや圧倒されながら、臼井和尚に質問した。
「“泥御坊”ってのは、お話の中にだけ出てくる怪物じゃないんですか?」
「少なくとも、沼のそばで死んだ村人は多いと伝えられていますよ」
そう言えば、加絵子さんもそんなことを言っていた。しかし──
「沼に落ちたのが原因なんじゃありませんか? 底なし沼なんでしょう?」
オレは頭から、そんな怪奇談を信じちゃいなかった。それでも臼井和尚は首を横に振る。
「遺体は必ず、沼の淵で発見されているのです。溺れたわけではありません。どの遺体も恐怖に引きつったような、凄い形相を浮かべて死んでいたそうです。──もっとも、最近は近づく人自体が少ないので、最後の犠牲者は噴火があった頃だから、明治の中頃でしょうか。それからは誰も犠牲になっておりません」
「噴火? 明治?」
「ええ、明治の大噴火。この辺は火山地帯なんですよ。ご存じありませんでしたか? だから、温泉などもよく掘り当てたって話も多いんです」
「ああ」
オレは拓哉の家の風呂を思い出した。あれも個人所有だが温泉だった。村には他にもあるのかも知れない。あの“いまだや旅館”の馳がこの村に目を付けたのも、あながち見当違いではなかったわけだ。
「噴火はそれから百年くらい一度もありませんから、土地の者でもなければ、あまり知られていない話かも知れませんね。でも、また、いつ噴火するか分かりませんよ」
そう言って、臼井和尚は仏像の方へ歩いていった。