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泥御坊

−8−

 翌日、オレは拓哉にも臼井和尚にも内緒で、“泥御坊”がいる──もしくはいたとされる──底なし沼を訪れてみた。
 それは一目で、ただの場所ではないと分かった。底なし沼の周囲は危険防止用のロープや柵の代わりにしめ縄がグルリと渡され、物々しい雰囲気を醸し出している。当の沼は黒く澱み、まさに泥そのものだ。落ちたら、ただで済むまい。
 そして不思議だったのは、底なし沼の周囲の植物が枯れたようになっているところだった。底なし沼の直径が七、八メートルとすれば、枯れ草はその倍の十五メートルくらいの範囲に及ぶ。まるで“泥御坊”の妖気がそうさせているかのようだった。
 確かに子供を近づけさせるには危ない場所だ。拓哉にも注意しておかなくてはいけないだろう。
 オレは周囲を調べ終えると、山道に戻った。
 山を下り、交番へ戻ろうとする道すがら、反対方向からやってくる男女に出くわした。
 男の方はジムで鍛えているのか、がっしりとした体格をしている。髪は五分に刈り上げ、いかつそうな顔にはサングラス、カーキ色のシャツに同系色の薄いズボン姿だ。これでアサルト・ライフルでも背負っていれば、ハリウッド映画によく登場するアクション・スターを彷彿とさせるが、背中にあるのは平凡なリュック・サックだった。
 だが、迫力ある男の風貌よりも、その連れである女性の方にオレの視線は釘付けになった。平凡なタンク・トップに短パンという格好は、もろにその肉感的なボディーを強調し、オレの脳髄を刺激する。モデルも真っ青のプロポーションだ。しかも、すこぶる美人である。むしゃぶりつきたくなるくらいの。加絵子さんには悪いが、こんな田舎ではお目にかかれない。美女は連れの男と同様にリュックを背負っていた。
 それにしても奇妙な取り合わせの男女だった。とても普通のカップルとは思えない。オレは声を掛けてみることにした。
「こんにちわ。どちらへ行かれるんですか? この道は山へしか通じていませんが」
 制服姿の警官のオレに呼び止められ、警戒した態度を取るかと思ったが、二人ともそんな気配はまったく感じさせなかった。男は立ち止まって、当然のごとく山の方を指さす。“泥御坊”の山だ。
「ちょっとハイキングにね。その後は町へ出て、温泉でひと汗流そうかと」
「ハイキングですか」
 オレは疑わしそうな目を向けた。あの山へハイキングに来るヤツなど聞いたことがない。それに服装。普通、山歩きには長袖長ズボンがいいとされる。草木が直接、肌に触れるのと虫さされを避けるためだ。それがどうだ、この二人ときたら肌の露出が大きいではないか。
 だが、美女から微笑みかけられると、オレの思考はショッキング・ピンクに変わった。
「変わっているかしら? でも、誰もが行くハイキング・コースより楽しめそうじゃない?」
 美女が髪を掻き上げると、タンク・トップからはみ出しそうなバストが揺れた。まあ、それも一理あるかも知れない。特に美女の方に言われると、そんな気にもなってくる。
「分かりました。呼び止めてすみません。それではお気をつけて」
 オレは軽く敬礼すると、美女も会釈で返してくれた。そのまま筋骨隆々な男とグラマーな美女は山の方へと歩いていった。
 オレは美女の揺れるヒップをいつまでも見送っていた。
「おまわりさん!」
 いきなり大きな声で呼ばれて、オレは飛び上がりそうになった。慌てて振り返る。
「何だ、拓哉か」
 オレはビビッたのを隠しながら、拓哉の頭に手を置いた。すると拓哉が尋ねる。
「ねえ、おまわりさん、夕べ見た?」
「何を?」
「流れ星だよ! 夕べ、あの山の方へ落ちてったのを見たんだ!」
「へえ、流れ星ねえ」
 オレはイヤな予感がした。
「ねえ、見に行こうよ!」
 拓哉は案の定、誘いを掛けてきた。オレは拓哉を諭そうと、しゃがんで、拓哉の目線の高さと合わせる。
「拓哉、流れ星があの山に落ちたとは限らないじゃないか。あの山のずっと向こうに落ちたかも知れないよ。それに、あまり山で遊んでいると、お母さんが心配するし、オレだってやらなくちゃいけない仕事があるんだよ」
 オレの言葉に、拓哉は機嫌を損ねたようだったが、黙ってうなずいた。オレはそんな拓哉の頭を撫でてやる。
「また今度、遊ぼうな」
 だが、拓哉は何も言わず、踵を返して、村の方へ走っていってしまった。可哀相だが、しょうがない。子供の相手ばかりしているわけにもいかないのだ。
 オレは拓哉のことが気になりながらも、交番へと戻った。
 それでもしばらくは、仕事が手につかなかった。無為な時間を過ごしてしまう。
 それから一時間くらい経っただろうか。そんなオレのところへ、息せき切って、三人の村の男たちが駆け込んできた。着任初日、顔を合わせているが、まだ名前までは憶えていない。その男たちの一人が、オレの腕をつかむようにしてきた。
「た、大変です、お巡りさん! 人が、こ、こ、殺されてる!」
「!」
 オレは思わず机から立ち上がった。そして、三人を交番から追い返すように出して、自分も外へ出る。
「現場は!? 案内してください!」
 オレは三人の案内で、現場へ急行した。
 案内された場所は、拓哉の家に近かった。一瞬、殺されたのが拓哉か加絵子さんではないかと青くなる。だが、そこから右に逸れ、人気のない雑木林へ入った。
 そこには他に五、六人の村人が集まっていた。皆、おろおろした感じで、立ちすくんでいる。
「すみません。通してください」
 オレは人垣をかき分けるようにして、その現場を直視した。
 まず視界に飛び込んできたのは真っ赤な血だった。それも大量に。出血のひどさが一目で分かった。
「うぐっ……」
 殺人現場を見るのは、さすがのオレも初めてだ。オレはあまりのむごたらしさに、一度、顔を背けたが、ハンカチで口許を押さえ、再度、死体を検分しようと試みた。
 死体は中年の男のものだった。背広姿の。その顔と服装に見覚えがある。
「馳……」
 それは加絵子さんの家で会ったことのある、“いまだや旅館”の馳であった。馳は喉元を鋭利な刃物のようなもので切り裂かれており、すでに死亡していることは明かであった。イヤなヤツだったことは確かだが、誰がこんなことを?
「第一発見者は誰ですか?」
 オレは集まっている村人に尋ねた。犬を連れた一人の男性がおずおずと手を挙げる。
「オレだ。犬の散歩で、この近くまで来たら、悲鳴が聞こえたんだ。そして、ここから男が立ち去るのが見えて、何事かと思って来てみたのさ。そうしたら、この男が死んでいてよ」
 オレは発見者の証言を手帳に書き写した。
「それで犯人らしき男の顔は見ましたか?」
「いや、後ろ姿だったし。ただ、グレーの作業着を着て、長靴履いていたから、オレらと同じ農家の者だろう。それに走り方見てると、若くはないな。オレと同じくらいでないか?」
 男の年齢は五十歳くらい。すると、この村の誰かかも知れない。
「他に気づいた点は?」
「手に鎌みたいなのを持ってた。それから山の方へ逃げていったな」
「山?」
 発見者の男は指さした。“泥御坊”の山を。


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