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泥御坊

−9−

 静かな暮らしが営まれていた南天沼村は、一転して大騒ぎとなった。殺人事件が起きたとなれば無理もないだろう。オレも本部へ連絡したり、村長らと打ち合わせを行ったりと忙殺された。
 気にかかるのは、まだ凶器を持った犯人が逃亡中ということだ。村の人たちには、警察が到着するまで、無闇に外出しないよう注意を促した。
「粕谷さん」
 殺人現場で発見者の村人たちから、再度、話を聴いていたオレの所へ、加絵子さんがやって来た。死体は見たくないのか、少し距離を置いて立ち止まる。
 オレは村人たちに断って、加絵子さんに近づいた。
「加絵子さん。まだ、犯人は逃亡中なんです。あまり出歩かないでください」
 オレは村人たちの目もあるので、なるべく声を低めて言った。だが、加絵子さんの顔が青ざめている。
「タクが帰ってないんです……」
「拓哉が?」
 事件のことは、すでに村のほとんどの者が知っているはずだ。どこかで小さな子供である拓哉を見かければ、こんな事件のあった直後だ、家に帰るように言うだろう。いや、分別ある大人なら送り届けてくれるかも知れない。それが帰っていないとは。
「まさか、あの子、また山へ行ったんじゃ……」
 加絵子さんの言葉に、オレは山の方向を振り返った。
 そう言えば、先程、オレが拓哉と会ったのも山の近くだった。そして、拓哉は落ちた流れ星を探しに山へ行こうとオレを誘った。オレは拓哉に、あまり山へ行かないよう言ったが、拓哉が簡単にあきらめたとは思えない。山には犯人が潜伏している可能性がある。人を殺したばかりの男が、どんな不安定な心理状態であるか。
 そこへ、こちらへとやって来る臼井和尚の姿が見えた。
「和尚さん!」
 オレは手を挙げて、臼井和尚を呼んだ。
「ああ、お巡りさん。大変なことが起きてしまいましたねえ。ついさっき、そこで話を聞きましたよ」
 言葉とは裏腹に、臼井和尚の口調はのんびりとしたものだった。殺人事件なんて非日常的な出来事にピンとこないのかも知れない。だが、それがオレを少し苛立たせる。
「和尚さん、拓哉を見かけませんでしたか?」
 オレは臼井和尚に訊いた。かぶりを振る和尚。
「今日は朝から、橋口さんのところで囲碁を打つ約束がありまして、さっきまでそこにいたんですよ。ですから、拓哉の姿は見ていませんが。──それがどうしたんですか?」
「拓哉が山へ行ったんじゃないかと思いまして……。そして、殺人犯も山の方角へ逃げたようなんです」
「なんと!」
 さすがに、事がここまで至り、臼井和尚も表情を変えざるを得ない様子だった。
 オレは意を決した。
「オレが探してきます。加絵子さんは村の人たちと一緒にいてください」
「でも……」
 オレの身を案じてくれる加絵子さん。こんな状況でなければ、抱きしめたいくらいだ。
「大丈夫です。拓哉は必ずオレが連れ帰りますから」
 加絵子さんを安心させるようにオレは力強くうなずくと、後のことを村人たちと臼井和尚に託した。
 一旦、交番へ自転車を取りに戻り、オレは全速力で“泥御坊”の山へと向かった。道が急な登りに差し掛かったところで、自転車を乗り捨てる。すでにフラフラ状態のオレだったが、休憩などしている暇はなかった。疲れた体にムチ打って、山を登り始める。
 登りながら、オレは拓哉の名を呼びかけようか迷った。呼んだ方が早く見つけられるだろう。しかし、その声を犯人も聞いてしまっては意味がない。再び逃亡するか、それとも……。とりあえず、拓哉がいそうな山寺と沼へ行くまでは、慎重に行動しようと思った。
 オレの手は、知らず知らずのうちに、腰のホルスターへかかっていた。手が汗ばむのは、自転車を全速力でこいできたことばかりが原因ではない。喉もカラカラだ。
 オレは早く拓哉を見つけたいのと、犯人に気取られないよう行動するのとで、凄まじい葛藤が渦巻いた。しかも、木々が周囲を取り巻く山道は見通しが悪く、些細な音や動きにオレは反応してしまい、精神的にも消耗させられる。オレはいざというときに素早い対処が出来るか不安になるほど、緊張で全身が硬くなっていた。
 それでもオレは無事に山寺まで辿り着いた。少しだけ緊張が緩む。だが、山の中でこのような建物こそ、いい隠れ家になるとも言える。オレは用心しながら、山寺の本堂へ足を踏み入れた。
「拓哉」
 ほとんど囁くような感じで、オレは呼びかけてみた。だが、薄暗い本堂は静まり返っている。オレは再度、呼びかけてみたが、やはり同じだった。どうやら、ここには拓哉も犯人もいないらしい。
 オレは山寺を出て、さらに登ったところにある“泥御坊”の沼を目指した。
 途中、腕時計で時間を確かめた。今頃、村にはパトカーが到着したはずだ。残念ながら、ここからでは村の様子を見ることは出来ない。だが、きっと犯人捜索のために山狩りを行ってくれるだろう。オレは早く駆けつけてくれることを祈りながら、今、自分に出来る精一杯のことをしようと思った。
 山道をさらに十分ほど登ると、いよいよ問題の沼へ続いている獣道の入口に到着した。余所者では、ただの草むらとして見落とすかも知れないが、よく観察すれば、何者かが何度も足を踏み入れた形跡がある。オレも、今朝方、訪れたとき、注意していなかったら通り過ぎていたことだろう。この草むらを通り抜ければ、沼はもうすぐだ。
 オレはいつでも拳銃を抜けるようにしながら、獣道へ分け入った。
 細い枝がオレの全身をチクチクといたぶる。だが、それも五メートルくらいのこと。すぐに開けた場所へと出た。
 そこは何度見ても不気味さを感じさせた。沼を中心にして、枯れた下生え。伸びている木肌も変色し、まるでここだけ魔の森と化したようだ。おまけに泥沼からは異臭も漂ってくる。なるべくなら、長い時間、留まりたくない場所だ。
 オレは沼の周囲を歩くようにして、辺りを見回した。
「拓哉」
 山寺のときよりも、大きな声で呼んでみた。周囲は草木で覆われている。誰かが接近すれば、音を立てるはずだ。
 ガサガサッ!
 背後で音がして、オレは反射的に振り返った。


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