沼を挟んで姿を現したのは──拓哉だった。
「拓哉!」
オレは拓哉の無事な姿に、全身の力が抜けるほど安心した。
だが──
草の音は、拓哉の後にも続いていた。拓哉よりも背の高い人物が現れる。
「警官か」
男は言った。拓哉の首筋に鎌を突きつけながら。
オレは反射的に拳銃を抜こうとした。しかし、男の行動の方が早い。
「やめろ! この子の首を切り裂くぞ!」
男の挙動はおどおどした感じで、言葉にも迫力は欠けたが、その震える手つきを見ると、逆に何をしでかすか分かったものではなかった。オレは言うとおりにして、両手をゆっくりと挙げる。
「お前が馳を殺したのか?」
オレは男を観察しながら尋ねた。
男は四十代後半か五十くらいだろうか。無骨な農作員といった感じで、肌は浅黒く、鎌を持つ手の指にも、こびりついた土の泥が見て取れる。ベージュ色の作業着は、馳を殺したときにかかった返り血が付着し、まぎれもなく犯人であることを窺わせた。
男は拓哉の後ろ首をつかむようにして、徐々にオレの方へと近づいた。
「あんなヤツは、世の中のためにも死んだ方がいいんだ」
男は吐き捨てるように言った。口調から、まだ興奮状態なのが分かる。
「馳に恨みでもあったのか?」
オレはさらに質問をぶつけた。何とか隙を見て、拓哉を救出したい。
男の方は、オレの意図に気づいたのかどうか、油断なく眼を光らせている。
「あいつはオレの土地を奪ったんだ!」
唾を飛ばして男が言う。
「奪った?」
オレは男をなるべく刺激しないようにと思ったが、訊かずにはいられなかった。
「そうだ! 温泉旅館を造るとか何とか言って、最初はオレにゴマをするように言い寄ってきた。オレは断固反対だった。あの土地は先祖代々が暮らし、そして血と汗を流して開墾したんだ! 誰にも売らねえ! だが、オレが手強いと見るや、あいつは親父に話を持ちかけた。もうボケも始まっている爺さんにだぞ! 親父は言葉巧みに騙されて、土地を売る契約を取り交わしちまったんだ! それも二束三文同然の安い立ち退き料でな! オレは家も畑も取り上げられ、家庭は崩壊さ! 今まで地道に農業を続けてきたのに、あいつは何もかもオレから奪いやがった! そんなあいつに復讐して、何が悪いってんだ!?」
男の話を聞いて、オレは黙り込んだ。初めて馳に会ったとき、気にくわないヤツだとは思っていたが、やはりそのような悪事を働いていたのか。次の狙いは、きっと加絵子さんたちの佐伯家だったに違いない。
しかし、だからと言って殺人を容認するわけにはいかない。悪人は正しき法の下で裁くべきであって、個人が義憤に駆られて処刑するものではないのだから。でなければ、世の中の秩序など崩壊してしまう。
「このまま逃げおおせるつもりか? 警察はすぐそこまで来ているんだぞ」
出来ればオレは、男に自首して欲しかった。もっとも、この状況の悪さも影響していたが。
しかし、男はオレの話など聞く耳持たぬようだった。
「あんな男を殺したくらいで、オレの人生をメチャメチャにされてたまるもんか! オレは逃げ延びてやる! 誰が刑務所なんかに行くもんか!」
男は拓哉を人質に取りながら、五メートルの距離までオレに近づいた。拓哉はすっかり怯えきっている。
「おい、子供は解放してやってくれないか」
オレは男に頼んでみた。だが、男は首を縦に振らない。
「まず、その拳銃を捨ててもらおうか。あと、警棒もだ。子供を放すのはそれからだ」
男の手は相変わらず震えたままだが、判断力は冷静だ。下手な小細工は通用すまい。と言うより、今のオレに機転など働くはずもなかった。
オレは仕方なく、拳銃と警棒を捨てることにした。制服警官の場合、拳銃はチェーンでベルトと結びつけられている。盗難防止のためだ。オレは男に手許を見せながら、拳銃を取り外しにかかった。
チェーンはベルトからなかなか外れなかったが、ようやく外すことが出来た。男がよこせとばかりに手を差し出す。
だがオレは、さらなる凶器を男に手渡すのはまずいと判断し、拳銃を沼地に放り投げた。泥が跳ね、見る間に拳銃は底なし沼に沈む。男はオレの行動が気にくわなかったようだが、すぐに考え直したらしく、顎をしゃくる。
「警棒もだ。早くしろ」
再び鎌が拓哉の喉元に突きつけられる。オレは警棒も外し、沼に捨てた。こちらは拳銃ほど重くないので、沈むことはなく、沼の表面に浮かんだ。
「よし、いいだろう。子供は放してやる」
男はそう言って、拓哉を解放した。押されるようにして、拓哉がオレの方へよろめく。
「大丈夫か、拓哉?」
オレは拓哉にケガがないか確かめた。拓哉はすっかり怯えきってしまい、うなずくのが精一杯のようだ。だが、見たところ、男に傷を負わされた様子はなかった。まずはホッとひと安心する。
「拓哉、家へ帰るんだ」
オレは拓哉に言った。しかし、拓哉はイヤイヤをするように首を振る。オレは拓哉を安心させるように、しゃがんで、目線の高さを合わせた。
「大丈夫だ。あとはオレに任せておけ」
拓哉に言いながらも、今のオレに勝算など皆無であった。ただ、拓哉に対して、弱気なところを見せるわけにはいかない。警察官たるもの、市民を守ることが仕事だ。
「さあ、拓哉」
オレは再度、拓哉を促した。しかし、拓哉はオレから離れようとしない。
どうやらそれが男を苛立たせることになったようだ。
「聞き分けのないガキだな!」
男は乱暴に拓哉の襟元をつかむと、力任せに地面に転がした。拓哉が顔をしかめる。
「何をする!」
オレはとっさに男に飛びかかっていた。足下を狙ってタックルする。オレと男はもつれるように転倒した。
「こいつ!」
男は手に持った鎌で、上に乗る形になったオレを刺そうとした。オレは必死に、その手を押しとどめようと、左手で男の右腕を止めようとする。
男は身をよじった。その結果、意図したわけではないのだろうが、男の膝がオレの鳩尾を痛打する。
「ぐっ!」
オレはうめき声を上げた。思わず、男の右腕を押さえる力が緩む。
男は鎌を振るった。反射的に目をつむったせいで見えなかったが、オレの体のすぐ近くを鋭利な刃が掠めるのを感じた。男の攻撃が闇雲な分だけ助かったのだ。
しかし、そんな幸運にばかり頼るわけにもいかない。オレは横に転がるようにして、男の体から離れた。
ところが転がった方向が悪かった。オレは右手から沼の中に突っ込んで、慌てて転がるのをやめた。危なく底なし沼に落ちるところだ。背筋が冷たくなる。
沼の淵で仰向けに横たわるオレに、起きあがった男が襲いかかってきた。右側には底なし沼、左側からは襲い来る男。絶体絶命のピンチ!
そのとき、オレの指に固い何かが触れた。これは──!?
考えている暇はなかった。オレは指に触れた“それ”を手にし、思い切り男に向かって振るった。