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泥御坊

−11−

 ガッ!
 右手に強烈な衝撃が走る。とっさに左手も添えたのは正解だった。
 男が突き立てようとした鎌の刃を、オレの警棒がしっかりと受け止めていた! 刃が警棒の半ばまで食い込んでいる!
 警棒を捨てたとき、沼の中央ではなく、淵に近いところに落ちたのだ。それは意図したわけでなく、偶然の産物だったのだが、そのお陰でオレは命拾いできたというわけだ。
 おまけに泥沼から拾い上げた警棒は、思わぬ効果を上げた。警棒についていた泥が、振った拍子にはねて、男の顔にかかったのである。男はたまらず目をつむり、慌ててオレから飛び退いた。
「くそお! やってくれたな!」
 男は顔についた泥を袖で拭いながら、逆上した。浅黒い顔が憤怒に赤く染まる。鬼の形相だった。
 オレはその間に立ち上がり、態勢を立て直した。男の攻撃を受けきったとは言え、それは単純に運が良かっただけの話だ。警察学校で習った護身術も頭から吹き飛んでいる。次、襲いかかってこられたら、それを避ける自信はない。
 しかし、相手に弱気なところを見せるわけにもいかなかった。
「もう観念しろ。これ以上、罪を重ねるな」
 男を諭したつもりだったが、それが仇になった。男には後がなく、自暴自棄同然になっていたのかも知れない。
「うるせえ! こんな所で終われるかってんだぁ!」
 男は上段から鎌を振り下ろした。オレは再度、警棒での防御を試みる。だが、先程の一撃で、警棒は限界だった。呆気なく真っ二つにされてしまう。
「!」
 オレは思わず尻餅をつくような格好で倒れた。オレの両手には、切断された警棒が半分ずつ。これで万事休すだ。
 男がオレにトドメを刺そうとした刹那──
 ……ブクッ……ブクブクッ……
 殺される瞬間かも知れないと言うのに、オレの耳は妙な音を捉えていた。まるで泡が弾けるような音を。
 ブクッ……ブクブクッ……ブクブクブクッ……!
 その音の間隔は、段々と狭まっていた。それも急速に。
 オレは見た。そして男も見た。おそらくは拓哉も。
 沼の表面に泡が立ち上ってくるのを……。
 最初は小石くらいの大きさの泡だった。それがやがて野球のボールくらいになり、さらにバスケット・ボール大にまでなる。泡は後から後から湧き出てきた。
 まるで何かが出現する予兆のように、オレには感じられた。
 “泥御坊”──
 オレが伝承の怪物を思い浮かべたのは無理もないだろう。この底なし沼の底に眠る旅の僧侶。身分の違いから仲を引き裂かれた女のことを想い、彼は化け物に姿を変えても現代に甦りたいのだろうか。
 見れば、拓哉も底なし沼に現れる泡に釘付けになっていた。きっとオレと同じように、“泥御坊”を想像していたに違いない。
 だが、男は違った。沼の異変は気がかりな様子だったが、すぐにオレの方へ向き直る。凶器の鎌が振り上げられた。
 オレはそれを時間が止まったかのように見つめた──
 パーーーン!
「──!」
 一発の銃声が、時間の流れを引き戻した。オレではない。別の方向──山道からの入口だ。
 そこに一人の女が、理想的な射撃姿勢で立っていた。手には小さな拳銃──ガン・マニアのオレが見たところ、あれはスミス&ウェッソン・ショーティー40だ。銃口から硝煙が立ち上っている。
「危機一髪セーフってところかしら?」
 女はオレの方にウインク一つしながら、艶然と微笑んだ。数時間前、山道の入口で出会った、奇妙な取り合わせのハイカーの一人だった。
 銃弾は正確無比に男の右手を撃ち抜き、鎌を吹き飛ばしていた。動きのある小さな目標を狙うのは、オレたち、射撃練習をしている警察官にも困難なことだが、それを難なくやってのけるとは、この女、只者ではない。
 男は右手を押さえて呻き、その場に膝をついた。
「あなたは一体……?」
 オレは感謝の言葉よりも先に、つい尋ねてみたくなった。
「私は──」
 女は油断なく男に狙いを定めながら、オレの方に歩み寄ってきた。が、その表情が豹変する。
「伏せて! 息も止めて!」
 女はオレに叫んだ。女の方に気を取られていたので、オレには分からないが、男が反撃をしようとしているのだろうか。しかし、その場合、伏せるのは分かるが、どうして息まで止めなくてはならないのか。
 オレは男の方を振り返ってみた。だが、注視したのでは男ではなく、沼の方だった。
 ゴボッ……!
 沼の底から何かが浮かび上がってくる気配を感じた。今までの泡などではない。もっと大きなもの……。
「来るわよ!」
 女はそう言って、自らも口を覆い、身を伏せた。
 来る? 来るとは何だ? まさか、本当に“泥御坊”が?
 オレは慌てて、近くにいた拓哉を抱きかかえ、一緒に身を伏せる。
「拓哉、息を止めろ!」
 オレの指示で、拓哉は頬を膨らませるようにして息を止めた。オレもそれにならう。そして、もう一度、沼の様子を窺った。
 ゴッ……………ガバッ!
 沼の表面が大きく盛り上がった。高さはオレの身長くらい、大きさは沼の直径に匹敵するのではあるまいか。そして、それは限界まで膨れ上がると、大きく弾けた。中からは何も現れない。想像していたような化け物の出現ではなく、それもまた泡だったのだ。ただし、見たことも聞いたこともない巨大さだったが。その証拠に、泡の膜を作った泥が大きく跳ね、オレたちの背中に雨のように降りかかるほどだった。
 そのとき、男が左手で鎌を拾い上げ、立ち上がった。まだ、戦意を喪失していなかったようだ。オレに斬りかかろうと、一歩、足を踏み出す。
 だが、次の瞬間、男の眼が大きく見開かれるのをオレは見た。まるで喉に餅を詰まらせたかのように、うっと呻いて、苦しみだす。
 そのとき、オレの鼻にも猛烈な刺激臭がした。男はこれをまともに吸い込んでしまったに違いない。オレはようやく女が息を止めるよう注意したのを理解した。オレは拓哉が吸い込まないよう、手で口と鼻を覆ってやる。
 男は意識を失ったかのように、大きくよろめいた。危ない、と思ったのも束の間、男は頭から底なし沼に倒れ込んだ。
 男の体がゆっくりと底なし沼に沈んでいくのを見ながら、オレは何もすることが出来なかった。自分の身と拓哉を守るのに精一杯である。男が苦しまなかったことが、せめてもの救いだった。


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