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コロッケ

−2−

 何度来ても、病院の廊下というヤツは好きになれそうになかった。和彦は母、はるの手をしっかりと握りしめながら、おびえるように歩いていた。たまたま、向こう側から歩いてきた白衣の医師とすれ違う。それだけで和彦は恐怖に身がすくむような感じがした。
 今日は、兄、昭彦の見舞いに来たのだ。本当ならば、病院へはあまり来たくない。それは病院が和彦にとって、なんとなく怖かったからだ。病院の建物も、そこで働く医師や看護婦、そして患者に至っても。ここには町の商店街や学校のような活気がない。まるで人も建物も死んでいるように和彦には感じられた。だから、和彦は病院が嫌いなのだ。もし、和彦自身が病気やケガで病院へ行かなくてはならなくなったら、断固拒否するつもりだった。
 しかし、大好きな兄に会うためには、ここへ来るほかなかった。兄の昭彦が入院して二年。和彦が入学して以来、一緒に学校へ登校したことはない。数回、正月などで家に戻ってくることはあったが、すぐにまた病院へ戻るといった具合だ。和彦には、兄の昭彦と遊んだ記憶があまりない。
 それでも和彦は、兄が好きだった。兄は物知りだった。学校へはこの二年もの間、行っていないが、暇さえあればベッドの上で勉強をしたり、本を読んだりしている。入院する前のクラスメイトが、ときどき、見舞いに来てくれているようで、勉強そのものは小学校六年生で、充分に通用するほど努力しているようだ。そんな兄を和彦は尊敬した。自分ではとても真似できないだろう。和彦は勉強よりも外で友達と野球でもする方が楽しい。
 昭彦と会うのは一週間ぶりになる。和彦の家と病院は直線距離にして約二キロと、そんなに遠くはなかったが、小学校二年生が一人で通うわけにもいかない。どうしても、母か祖母と一緒に来るほかなかった。
 和彦は、一昨日、友達と作った竹とんぼを兄に見てもらうつもりだった。
「兄ちゃん!」
 和彦は飛び込むようにして、昭彦の病室に入った。
「カズ」
 昭彦はベッドから身を起こして、本を読んでいるところだったが、弟の姿を見て、笑顔を見せた。昭彦が入院している病院は小さな所で、病室は大部屋よりも逆に個室が多い。そのため、和彦は遠慮なく大きな声を出して、昭彦の元へ駆け寄った。
「兄ちゃん、見て、見て! 竹とんぼ、作ったんやで」
 そう言って和彦は、ずっと握って持っていた竹とんぼを昭彦に見せた。昭彦がそれを受け取る。
「へえ。うまく出来てるやんか」
 親指と人差し指でつまむようにして回し、昭彦は弟を褒めた。昔、昭彦が作り方を教えてやったことがあったが、そのときの和彦はうまく作ることが出来なかった。
「兄ちゃん、飛ばしてみ」
「ええんか? なら!」
 昭彦は両手をすり合わせるようにすると、思い切って竹とんぼを飛ばした。竹とんぼは天井すれすれまで上昇すると、そのまま昭彦の足下の方向へ飛んだ。あまりに飛びすぎて、壁にぶつかってしまう。もっと広い場所ならば、かなり遠くまで飛んだに違いない。
「飛ぶなあ」
 昭彦は感嘆した。そして、窓の外を見やる。出来れば外で飛ばしてみたいと思ったのだろう。
「これ、兄ちゃんにやるわ」
 和彦は竹とんぼを拾い上げて、兄に言った。
「ええんか? お前はどうすんねん?」
「また作るさかい、ええって」
 和彦はこともなげに言った。しかし、実はこの竹とんぼを作るまで、二つをダメにしている。今日、持ってきたのは、ようやく苦労して完成したヤツだ。だが、兄の手前、そんなことはお首にも出さなかった。
「体の具合の方はどうなん?」
 母のはるが持ってきた下着の替えを荷ほどきながら、昭彦に尋ねた。昭彦は読んでいた本を片づけながら、
「大丈夫や。ここんとこ調子ええし。この分なら、もうすぐ退院できるんとちゃうかな」
 と、言った。それを聞いて、和彦が目を輝かせる。
「ホンマ?」
 身を乗り出してくる和彦の頬を、昭彦は笑いながらつねった。
「ああ。夢やないやろ?」
「うん……いだい……」
 兄弟は大笑いした。しかし、はるの表情は泣き笑いみたいになっている。
「無理したらアカンで。おかあちゃん、心配やわ」
 はるは昭彦の方に顔を向けず、下着の補充を終えた。
「大丈夫や。先生たちの言うことは、ちゃんと聞いているよって」
 小学校六年生ということを差し引いても、昭彦ははるにとって出来過ぎた息子だった。きっと昭彦の中では、家族に心配ばかりかける負い目があるのかも知れない。それが余計にはるをつらくさせた。
 そこへドアをノックする音がした。
「どうも」
 ドアから顔を出したのは、昭彦の担当医である島田先生だった。歳は四十代くらい、メガネをかけた、不健康そうな顔色の医師だ。
「あっ、昭彦くんのお母さん。ちょっと、お話をいいですか?」
 島田はそう言いながら、はるに手招きした。はるはうなずく。
「分かりました。──じゃあ、おかあちゃん行って来るけど、あまり兄ちゃんの体に差し障るようなことするんじゃないよ」
 久々に兄と面会してはしゃぐ和彦に、はるはクギを刺した。昭彦が笑う。
「大丈夫やて。おかあちゃんは心配せず、島田先生のところへ行って来ればええ」
 息子に促され、はるは無言のまま、病室から出ていった。途端に、和彦が昭彦のベッドに腰掛ける。
「なあ、兄ちゃん。退院したら、海へ行かへんか? 兄ちゃんに泳ぎ教えて欲しいねん」
 そろそろ夏だった。今年こそ泳げるようになりたいと、和彦は考えていた。
 だが、昭彦は思案顔だった。
「海か。でも、兄ちゃん、退院できても、すぐには遊べへんと思うわ」
「ええ? つまらんなあ。せっかく、兄ちゃんと遊ぼ思うてたのに」
「すまんなあ。兄ちゃんの病気は心臓なんや。和彦みたいに、外で思い切り遊ぶわけにはいかんのや。兄ちゃんは、家で勉強でもしてるわ」
「そんなん、イヤやわ。せめて、一緒に海へ行かへんか? 兄ちゃんは泳がんでもええから。兄ちゃんが教えてくれんと、オレ、今年も泳げへん」
 和彦は唇を尖らせるように言った。だが、そのまま昭彦は黙り込んでしまう。
 和彦は昭彦の顔をまじまじと見つめた。
「兄ちゃん、病院を出たら、やりたいことはないの?」
 弟に問われ、一瞬、昭彦は考えた。
「そうやなあ、やっぱり、おいしいもん、食べたいなあ。病院のメシは、不味いしな」
「すき焼きとか?」
 和彦は夕べの一悶着を思い出して口にした。昭彦が苦笑する。
「すき焼きか」
「そうや。兄ちゃんの退院祝いなら、おかあちゃんもすき焼き出してくれるわ」
 和彦はすき焼きを想像して、口の中に唾液があふれそうになった。
 昭彦が思案する。
「すき焼きもええけど、兄ちゃんはコロッケ、食べてみたいわ」
 昭彦の口から意外な名前が出て、和彦は露骨にイヤな顔をした。
「コロッケ〜ぇ?」
 キツネ色の揚げ物を思い浮かべ、和彦はうんざりした。口の中が油っぽくなった気がして、舌を吐き出す。
「あんなの、見るのもイヤや。何であんなもん、食べたいなんて思うんや?」
 しきりに顔をしかめてみせる弟に、昭彦はおかしくなった。
「なんや、コロッケはカズの好物だったやんか? いつから嫌いになったん?」
「好きな物でも、ずっと夕飯のおかずに出てきたら飽きるで。もう、見るのもイヤやわ」
「おかあちゃんはカズが好きな物を出してやってるとちゃうかな?」
「だからって、毎日、出すことはあらへんやろ? 極端なんや、おかあちゃんは」
「でも、兄ちゃんは久しぶりに食うてみたいな、佐久間屋のコロッケ」
「なんで、入院している兄ちゃんにまで、貧乏が染みついとんのや?」
「アホ。カズこそ、兄ちゃんが食べてる病院の食事を口にすれば、分かるて」
「そんなもんかいなあ」
「ああ、コロッケ、食べてみたいなあ。揚げたてのコロッケを、こう、口にほうばってな。──カズは揚げたてのコロッケ、食うたことあるか?」
「ない。いっつも出てくるのは、すっかり冷めてしまっておる」
「そうかぁ。揚げたてを食うてみたら、きっとカズも、コロッケに対しての見方が変わるわ」
 和彦は兄の顔を見ながら、そんなもんかと、漠然と考えていた。


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