翌日、学校から帰ってきた和彦に、はるが買い物を頼んだ。
「コロッケを四つ、買うてきてえな」
二十円を渡された。
和彦は家から五百メートルほど離れた所にある肉屋まで歩きながら、握りしめた二十円を見つめた。
(兄ちゃんにもコロッケ、食わせてやりたいな)
昨日、病室でコロッケのことを話す兄の顔が、なんとなくこびりついていた。
和彦は意を決すると、肉屋のおあばちゃんに二十円を差し出しながら、言った。
「おばちゃん、コロッケ四つ」
「あいよ」
肉屋のおばちゃんは返事をすると、トレイに乗せられていたコロッケを取ろうとした。和彦が慌てる。
「おばちゃん、揚げたてにしてくれへんか?」
和彦の言葉に、肉屋のおばちゃんは、一瞬、顔をまじまじと見つめたが、すぐに気を取り直し、店の奥へ向かって、
「コロッケ、四つ!」
と、声を掛けた。奥からは返事がなかったが、おばちゃんとさほど年の変わらないおじちゃんが、調理場で動き出すのが見えた。きっと、これから揚げるに違いない。
「ちょっと、時間かかるで」
と、おばちゃん。
「おおきに」
和彦は礼を言って、奥を覗こうと、精一杯の背伸びをした。和彦の位置からでは、おじちゃんの背中ばかりで、その手元を見ることは出来なかったが、油で揚げる音だけは聞こえてくる。それに何とも言えぬ香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
待つこと五分、揚げたてのコロッケがおばちゃんの所まで運ばれてきた。おばちゃんはそのコロッケを紙の上に乗せ、慣れた手つきでくるくるっと包装する。仕上げは輪ゴムでとめた。
「あいよ。熱いから、気ィつけてな」
おばちゃんはそう言い添えて、和彦にコロッケを渡した。
「おおきに、おばちゃん」
和彦は二十円を渡し、店を出ると、今度は家とは反対方向へ駆けだした。昭彦が入院している病院の方角だ。
手に抱えるコロッケの包みは、時折、持ち替えないと火傷しそうなほど熱かったが、少しでも兄に出来立てを食べてもらうために、和彦は走った。そんな和彦の様子に、すれ違った人々が振り返る。
和彦は、途中、転びもせず、病院へ到着した。子供心にコロッケが見つかってはまずいと判断したのだろう、包みをシャツで隠すようにして、腹に抱え込んだ。ヘソの辺りにコロッケが当たると、熱さに声が出そうになる。それを堪えつつ、和彦は兄の病室へ向かった。他の人に怪しまれないよう、普通を装いながらも、心なし早足で。
廊下の角を曲がったところで、昭彦の主治医である島田に出くわした。和彦はまずいと、顔を強張らせる。
「おや、和彦くん、今日は一人なのかい?」
和彦が一人で病院へ見舞いに来たことは一度もなかった。島田にしてみれば何気ない言葉だったのだろうが、和彦にしてみれば鋭い追求に思えたのかも知れない。コロッケを抱える腕に力がこもる。
「う、うん」
「そうか。偉いなあ」
島田は和彦の頭を撫でようと手を伸ばしかけた。すると、途中で鼻をひくつかせる。
「ん? なんか、いい匂いがするなあ。これは……」
揚げたてだけに、コロッケの匂いは包んである紙の中からでも漂ってきていた。和彦は感づかれたかも知れないと思い、早々に退散しようとする。
「先生、さいなら」
ほとんど逃げるようにして、和彦は島田に別れを告げた。そして、足早に昭彦の病室へ駆け込む。
「カズ!?」
突然、入ってきた和彦を見て、昭彦は驚きの声を上げた。昨日と同じように、ベッドの上で本を読んでいたところだ。
和彦は病室のドアの所で立ち止まり、島田が来ないか、耳を澄ませていたが、誰も近づく気配がなく、ようやくホッとした。
「どうしたんや?」
昭彦は怪訝な顔で、和彦に尋ねた。和彦はシャツの下から、コロッケが入った包みを取り出す。
「兄ちゃん、昨日、コロッケ食いたい言うてたろ? だから、持ってきてやったんや」
和彦はいそいそと昭彦のベッドの上で、包み紙を開いた。中から、まだホカホカのコロッケが四つ、現れる。昭彦の目が大きく見開かれた。
「どないしたんや、これ?」
「そんなん、買うてきたに決まってるやないか」
「買うたって……お金は?」
「そ、それは……正月のお年玉、まだ残しといたんや」
和彦はとっさにウソをついた。まさか、今日のおかず用に買った物だとは言えなかった。
「珍しいな、お前がお年玉を残しといたなんて」
「うん……おかあちゃんに預けててな、オレも忘れてたんやわ。──それよりも、兄ちゃん、食べてみてえな。兄ちゃんのために買うてきたんやで」
揚げたてのコロッケの匂いは、昭彦の食欲をそそるのに充分だった。堪えきれず、手づかみでコロッケを口にする。約半分くらいを一気にガブリといった。
「どや?」
和彦は思わず感想を求めた。
「うまい!」
昭彦の顔は、入院してからこれまで見たこともないほど、上気したようになった。続けて二口目を口にする。その間にも、うーん、うーん、と声にならない歓喜を唸らせる。三口でコロッケ一つ分をぺろりとたいらげた。
「懐かしいわぁ、佐久間屋のコロッケ。しかも揚げたてなんて。カズ、おおきにな」
昭彦に感謝され、和彦は照れ笑いを浮かべた。
「これくらい、どうってことないわ。それよりも兄ちゃん、どんどん食べてえな」
和彦はさらにコロッケを勧めた。昭彦は遠慮なく、二つ目を手に取る。
「カズも食べたらどうや?」
まだ二つ残っているコロッケを弟に差し出した。和彦は首を横に振る。
「オレはええねん。これは兄ちゃんのために買うてきたもんなんやで。それにオレは、毎日、食べてるさかい」
と、和彦は遠慮したが、昭彦は、
「だけど、兄ちゃん一人で、四つも食べきれへんわ。カズは揚げたてのコロッケ、食うたことないんやろ? うまいで。騙されたと思うて、いっぺん、食うてみいな」
と、重ねて言った。
和彦はコロッケを見つめた。実はさっきから揚げたての香ばしい匂いに、唾液の分泌が止まらなかったのである。昭彦が美味しそうに食べているのを見るとなおさらだった。
「じゃあ」
和彦は仕方ないといった感じを装いながら、コロッケを手に取った。
「熱いから、気ィつけてな」
昭彦が注意する。和彦は小さくうなずいてから、コロッケにかぶりついた。
「!」
果たして、これがあのコロッケかと思わせるほど、なんとも言えぬ旨味が和彦の口の中一杯に広がった。いつも食卓に出ているコロッケとはまったく違う。
まず、歯触りが違った。衣がサクッといい音を立てる。そして、そこからあふれ出る熱い肉汁のようなもの。甘い。それはジャガイモの甘さであった。しかも、冷めているときとは反対に、しっとりとしたまろやかさを含んでいる。口内の熱さは香ばしさと共に鼻へと抜け、口をはふはふさせると、また一口食べたいという欲求が強くなり、和彦は大口を開けた。
アーン、シャリシャリ、んぐ、もぐもぐ。
バクッ、シャシャッ、はむはむ、ごっくん。
あんなにコロッケには飽きたと言っていたのに、和彦は信じられないくらいの早さで完食した。思わず、手を止めて、それを見ていた昭彦が笑い出す。
「どうだ、うまいやろ?」
「うん、うまい!」
兄弟はコロッケの衣が布団の上に落ちるのも、自分たちの指が油で汚れるのも気にせず、互いに二つ目にむしゃぶりつきながら、最高の笑顔を見せた。