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三日後、和彦は母、はると共に、再び病院へ来ていた。
病室の窓からは、初夏のさわやかな風が入り込んでいた。それがカーテンをそよがせる。
ベッドは整然と片づけられていた。昭彦が使っていた布団も、寝間着も。一番上には、和彦が置いていった竹とんぼが乗せてあった。
昭彦と一緒にコロッケを食べた夜、兄の具合が急変した。すぐに手術室に運ばれたそうだが、手の施しようがなかったらしい。
和彦の兄、昭彦は死んだ。享年十二歳。あまりにも早すぎる死だった。
片づけられた病室は、和彦にとって寒々しく感じられた。空虚な空間。死んだように止まった時間。不吉さを禁じ得ない白と黒のコントラスト。もう、兄はいないのだ。あの聡明で優しかった、大好きな兄は。
「ありがとうございました」
はるはお世話になった看護婦に深々とおじぎをして、最後の挨拶をしていた。和彦は待っている間、兄が長いこと過ごしていた病室の中で立ち尽くし、昭彦にあげた竹とんぼを手にした。昭彦だって、思い切り外で遊びたかっただろう。そんなごく普通の子供らしい願いも叶わぬまま、逝ってしまうなんて。和彦はまた涙が込み上げてきそうになった。
「カズ。おかあちゃん、受付で手続きしてくるから。あんた、どうする? ここで待ってる?」
「うん」
はるの方を振り返りもせず、和彦は答えた。母の気配が遠ざかる。左手の拳で涙を拭った。
「和彦くん」
いつの間にか、病室の入口に島田が立っていた。疲れたような顔をしている。和彦は涙を見られまいとした。
「お兄さんのことは残念だったね。でも、気を落とさないようにな。これからは、君がお兄さんの分まで頑張って生きるんだ」
島田はそれだけ言うと、その場を去ろうとした。その島田に、
「先生」
と、和彦が声を掛ける。島田は立ち止まり、和彦の方を振り返った。
和彦は島田に言おうか言うまいか迷ったが、思い切って打ち明けた。
「兄ちゃんが死んだの、オレのせいやろか?」
そう言う和彦に、島田は怪訝な顔をした。
「どうして、そう思うん?」
「……あの日、兄ちゃんにコロッケを持ってったんや。兄ちゃん、前から食いたい言うてて……でも、病院では出してくれへんやろ? だから、オレ、持ってったんや。揚げたてのコロッケ。兄ちゃん、うまい言うて、食べてたわ。兄ちゃんのあんな嬉しそうな顔、オレ、久しぶりに見た。でも……でも……コロッケ、食べさせたらアカンかったんやろ? 兄ちゃんの病気には、コロッケはアカンかったんやろ? それなのに、オレ、兄ちゃんに食べさせてしもうた……兄ちゃんの病気が悪くなったのは、きっとオレのせいや……オレが悪いんや……兄ちゃんを死なせたんは、オレや……」
その場でうずくまりそうになる和彦の体を島田が支えた。
「何を言うんや。そんなこと関係ないで。コロッケ食べたくらいで、人間、死ぬかいな。昭彦くんが亡くなったんは、心臓の病気のせいや。いや、先生の力がもう少しあれば、助けてあげられたかも知れへん。責めるなら、先生を責めればいい。自分を責めたらアカン」
「でも……でも……」
和彦は島田の腕の中で泣きじゃくった。もう言葉にならない。そんな和彦の背中を、島田は何度も軽く叩くようにした。
「和彦くんは食べたかったコロッケを食べさせてあげたんやろ? 昭彦くん、きっと感謝してるで。最後に好きなコロッケを食べられたんやから。そうやろ?」
島田の慰めの言葉に、和彦は、益々、感極まった声で泣くのだった。
通夜、葬式、そして病院の手続きといった慌ただしい三日間も終わり、ようやく松浦家にいつもの日常が戻ってきた。とは言っても、家族の誰もが胸の中の空虚を簡単に埋めることは出来ない。こればかりは、もう少し時間がかかるだろう。
「明日から仕事に出る」
と、欽蔵が言った。葬式の席で、かつて世話になった親方と話をしたためである。それに昭彦の葬儀代も支払わなければならず、今までのように一家の大黒柱が一日ゴロゴロしているわけにもいかなかった。
それに対して、他の家族の反応は薄かった。やむを得ないところだろう。
「ごはんよ」
はるは夕飯の支度が出来たことを告げた。
部屋の隅で、ずっと竹とんぼを指で回して眺めていた和彦は、ふらりと立ち上がって、卓袱台<ちゃぶだい>の前に座ろうとした。が、突然、その動きが止まってしまう。
「どうしたの?」
息子の様子に不審なものを感じて、はるが声を掛けた。だが、和彦は何も言わず、糸が断ち切られた操り人形のように、その場に座り込んだ。
そこへ隣の部屋から祖母のカツがやって来た。
「おや、コロッケかい? そう言えば、死んだ昭彦が好きだったねえ。まだ、カズ坊が小さかった頃、おやつ代わりに買うてやったもんだ。これを食えば、昭彦の供養になるかも知れへんの。──カズ坊、おばあちゃんのを半分、あげようか?」
カツにそう言われた途端、和彦の目から大粒の涙がこぼれた。わんわんと大声をあげて泣き出す。皆、ワケが分からないといった様子で、和彦を見る。だが、和彦は構わず泣き続けた。
膝の上で握りしめていた竹とんぼに、和彦の涙が落ちて濡らした……。