←前頁]  [RED文庫]  [新・読書感想文]  [次頁→



静かなる侵略

−3−

 以来、世界は一変した。
 これまでは右利き社会であったが、完全に左利き社会に移行してしまったのだ。
 まず顕著に変化が表れたのはスポーツである。プロ野球などは、これまでサウスポーだった投手が右手で投げたり、打者もこれまでとは反対のバッター・ボックスに入って、忠雄を混乱させた。その他、サッカーやテニス、陸上競技の選手たちの利き腕、利き足が逆になっており、それらについてマスコミが特別に報じることはなかった。それは当然のこととして、多くの人々に受け止められていたからだ。
 むしろ、大きな社会現象となったのは、世界的にハサミが売れたことだ。最初、忠雄はピンと来なかったのだが、礼美によれば、ハサミには右利き用と左利き用があって、反対の手では切れないようになっていため、左利きになった者たちが必要に迫られて左用のハサミを買い求めた結果だという。他にも自動改札やプルトップといった左利きには不利なものが見直され、左優先に造り替えられようとしているとニュースで報じていた。
 それらは忠雄たちにとって、直接、影響するものではなかったが、逆に言えば、それだけ別人になってしまった者が多い証拠でもあった。
 もう、忠雄たちと同じ人類の生き残りはいないのかも知れない。そして、いつ忠雄たちも狙われて、別人に乗っ取られてしまうか。いや、体を乗っ取られるとは限らない。忠雄たちに似た者が別にいて、虎視眈々と入れ替わるチャンスを狙っているのかも知れなかった。
 身近な者たちがすべて別人になってしまった結果、忠雄は礼美と行動することが多くなっていった。他の者たちは、忠雄たちを徹底的に無視しており、会話も成り立たない状況なのだ。そのくせ、彼らは彼ら同士で、これまでと何ら変わらぬ生活を送っており、どちらかと言えば、忠雄たちの方が見知らぬ人々の中に飛び込んだ異邦人のようだった。
 こうして一週間がすぎた頃、忠雄は人々に無視される生活に慣れ始めていたが、意外にも礼美の方が苛立ちを募らせていた。彼女は忠雄と違い、ずっと優等生で通してきたのである。クラスメイトはともかくとして、教師たちに自分の存在を無視されるのは耐えられないのだ。忠雄ならば、無視されているので、授業もテストを受けなくてもいいという気楽さがある。しかし、礼美はそうもいかない。彼女はテストで高得点を取ることで、教師たちに認められてきた存在なのだ。それが彼女の存在証明と言っても過言ではないくらいに。だから、自分が教師たちの眼中にないことに、礼美はあせりを感じていたのだった。
「先生、どういうことなんですか?」
 職員室で、礼美は古文の教師を問いただした。年輩の古文の教師は、そんな礼美の声も聞こえぬかのように、お茶をすすりながら、別のクラスのテストの採点をしていた。
「どうして私の答案を返していただけないんですか? 私、ちゃんと提出しました!」
「やめろよ、鏑木」
 忠雄は礼美と一緒に職員室まで来たが、古文の教師が聞く耳を持たないのは分かり切っていた。彼らにとって、忠雄と礼美は存在しないも同然なのだ。
 しかし、礼美は食い下がる。
「先生、私のテストをちゃんと採点してください!」
「どうでもいいだろ、そんなもん」
 古文の教師に代わって、忠雄が言った。礼美がキッと睨みつける。
「尾形くんは引っ込んでて! どうせ、あなたはテストをやってもいないんでしょ?」
 その通り。忠雄はテスト中、寝ていた。提出もしていない。
「先生!」
 礼美は古文の教師の肩をつかんだ。だが、それを払いのけられる。その拍子に礼美はよろめき、足下のゴミ箱を倒してしまった。
 ゴミ箱から紙屑が転がり出た。礼美は拾い集めようとする。ふと、その手が止まった。
「鏑木?」
 礼美は紙屑の一つを拾い上げた。そして、クシャクシャに丸められた紙を広げていく。
「!」
 それは礼美の答案用紙だった。もちろん、採点もされていない。
 礼美は肩が震えた。そして、クシャクシャの答案用紙を自らの手で握りつぶした。
「鏑木!」
 忠雄が声をかけようとしたが遅かった。礼美は突然、走るようにして、職員室から出ていってしまったのだ。
 忠雄は礼美を追いかけた。他の生徒たちを突き飛ばしながら走る。だが、そんな忠雄に対して、誰も罵声を浴びせることはなかった。
 廊下の途中で、忠雄は礼美に追いついた。礼美の二の腕をつかむ。
「おい!」
 忠雄は乱暴に礼美を止めた。痛みに礼美が振り返る。その目からは涙が流れていた。
「何よ?」
「ちょっとは冷静になれよ! いつものお前らしくねえぞ!」
「冷静に? この状況で冷静になれって言うの!? 世界は変わってしまったのよ! みんな、外見は変わっていないけど、中身は別人に変わってしまった! そんなことが耐えられて!? これから私たちはどうなるって言うの!?」
「………」
 激情を迸らせる礼美に、忠雄は黙った。そして、不意に笑い出す。その笑い声に、礼美は忠雄が気が狂ったのかと思った。
「な、何よ? 何なのよ?」
「お前もそういう不安を抱えていたんだな!」
 忠雄は破顔した。礼美は戸惑う。
「最初、こんな大変なことが起きているってのによ、いつも澄ました顔しているから、お前の方が他のヤツよりもよっぽどおかしいと思っていたんだよ! オレなんか、この先どうなっちまうのか、考えれば考えるほど不安になって、気が狂いそうだったぜ! でも、内心ではお前も同じだった! それが分かったら、何だかおかしくって……」
 その先を続けられないほど、忠雄は腹を抱えた。段々、礼美は赤面してくる。
「そこまで言うことないでしょ、バカ」
 礼美は忠雄から離れるように、再び廊下を歩き始めた。忠雄が追いかける。
「待てよ。お前だって言ってただろ? この世界の異変を知ったところで、オレたちには何も出来やしないんだ。オレたちにいなくなった人々を救えるか? オレたちがヤツら全員と戦うことが出来るか? とても無理な話だ。でも、幸い、オレたちは今、こうしていられる。ただ生きていくだけなら、何の不自由もない。むしろ、何の束縛も受けない真の自由がオレたちにはあるんだ。鏑木、オレはこの頃、思うんだよ。まんざら今の世界も悪くねえってな」
 忠雄の言葉に、礼美は立ち止まった。
「本気なの?」
「ああ。考えてもみろよ。何をやったって、オレたちはヤツらにとっていないも同然なんだ。万引きして好きな食い物も食えるし、服だって選り取り見取り、どんな無茶をしようが捕まることはねえ。これほど愉快なことはねえぜ!」
 礼美の表情は、次第に強張っていった。
「尾形くん、そこまであなたが愚かだと思わなかったわ。人間はね、一人じゃ生きていけないのよ。もし、あなたが重い病気になったらどうするの? 手術を要するような病気になったら? 事故に遭ったら? 誰かの助けなしで生きるなんて無理よ!」
「助けだって? そんなもん、必要ねえよ! 人間、死ぬときは死ぬんだ! それまで好きなことをした方が得だぜ!」
 礼美はかぶりを振った。忠雄とは話にならない。
「そう、分かったわ。あなたがそう思うなら、私は何も言わない。さようなら」
 礼美は忠雄に背を向けた。忠雄は礼美の潔癖さが気にくわない。
「上等だ! オレだってお前みたいな優等生とは、初めから合わないと思っていたんだよ! 世の中な、柔軟に対応しないと生きていけねえぞ!」
 忠雄はそう言い捨てて、学校を抜け出すことにした。どうせ、出席しようがしまいが関係ないのだ。


<次頁へ>


←前頁]  [RED文庫]  [新・読書感想文]  [次頁→