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彼女が来る夏

−5−

「名美……名美ったら!」
「え?」
「何をさっきからボーッとしてるのよ。はぐれても知らないわよ」
「ごめん」
 私は亜矢に謝った。つい、あのことを考えていたらしい。気をつけないと亜矢の言うとおり、はぐれてしまいそうだ。
 暗くなった湘南海岸には、昼間以上の人出であふれ返っていた。今日は毎年恒例の江の島花火大会が行われるのだ。家族連れやカップル、親しい友人同士が集い、皆、海の方向へと歩いている。海岸線の道路は封鎖されているので、車道も歩けるのだが、それでも人混みの中に埋もれてしまいそうだ。
「あっ、いたいた! お〜い!」
 待ち合わせた江の島大橋のたもとに、ナツオさんと風間さんの姿を見つけることが出来た。こっちに向かって手を振っている。私と亜矢は人混みをかき分けながら合流した。
「お待たせ」
「おっ、二人とも浴衣じゃん!」
 風間さんが私たちの姿を見て、一オクターブ高い声を出した。そう、私たちは花火大会ということもあって浴衣を着ていた。亜矢はパステル・ピンクを主体にした今風の浴衣、私のは白を基調に水色、ピンク、黄色といった大きな水玉模様をあしらった浴衣だ。髪もアップにしてある。
「いいねえ、女子高生の浴衣姿!」
「ヤダ、風間さん、オヤジみたい!」
 いやにテンションの高い風間さんに対して、亜矢が笑って言った。
「そろそろ始まりそうだ。行こうぜ」
 ナツオさんがみんなを促した。
 私たち四人は、片瀬海岸の西浜に向かった。片瀬海岸は、江の島を挟んで、東浜と西浜に分かれている。花火が打ち上げられるのは、西浜の方だ。当然、ロケーションが最適な分、混み合う度合いも高くなる。私たちは、待ち合わせ前よりも混雑する人混みをかき分けねばならなかった。
 私は足に慣れない下駄を履いていたせいで、転ばないようにするのとはぐれないようにするのが精一杯だった。幸い、私の前にはナツオさんの大きな背中があるので、私が人混みを押しのける苦労は軽減される。ただただ、ナツオさんの背中だけを追いかけた。
 そんな私の背を亜矢が叩いてきた。
「じゃあね、名美。あとはうまくやりなさいよ」
「え? ちょっと、亜矢?」
 耳打ちしてきた亜矢の方を振り返ると、風間さんと一緒に別方向へ行くところだった。私は引き止めようと思ったが、前を行くナツオさんはどんどん進んでしまうので、亜矢たちを追いかけることもできない。そのうち、二人の姿は判別できなくなった。
 私たちは海沿いにある湘南海岸公園に辿り着いた。ここにも大勢の人たちが集まっていたが、だからと言って、あまり西浜から離れては意味がない。それにそろそろ花火が打ち上げられる頃だ。
 ようやく場所を落ち着かせたナツオさんが、亜矢と風間さんの姿がないことに気がついた。
「あれ? 風間たちは?」
「えっ、そのー、つまり、なんか、はぐれちゃったみたいで……」
 ナツオさんに問われ、私は何と答えていいか分からなかった。亜矢たちは明らかに私たちと別行動を取ったのだ。決してはぐれたわけではない。それに亜矢は私に、うまくやれと言っていた。ナツオさんに対する私の気持ちを知っているからだ。いわば、二人だけになるチャンスを作ってくれたのだが、そう思うと余計に意識してしまい、私の口数は減っていった。
 もっとも、この一週間、サーフィンの練習を繰り返すうちに、亜矢と風間さんの仲も親密になっていったのは確かで、あっちはあっちで二人だけになりたかったのかも知れないが。
「まあ、この場所は風間も知っているから、そのうち来るだろう」
 私は多分、それはないと思いながら黙っていた。
 ドーン!
 最初の一発が打ち上がった。周囲からどよめきのような歓声がわき起こる。拍手も聞こえた。花火の爆発音は、私の体にずしりと響いた。
 チラッと隣のナツオさんを見る。
 花火の極彩色がナツオさんの瞳に映し出されてキラキラしている。私の胸がトクンと高鳴った。それは打ち上げられる花火の度に鼓動を早めているようで、何だか息苦しくさえなる。でも、それでいてそばにいたい。ナツオさんの隣に。
 腕と腕が触れ合いそうな距離に、互いの体温を感じそうだった。海からは優しい潮風が涼をもたらす。ナツオさんの匂い。それは私の錯覚でしかないのは分かっているが、これまで海に接する機会があまりなかった私にとって、双方はイコールで結びついていた。
 花火を見上げていたナツオさんが、私の視線に気づいて、こちらを見た。私は慌てて視線を逸らす。夜でなければ、顔が火照ったように赤くなっていたのを見られたに違いない。だが、ナツオさんは何も言わず、再び花火が彩る夜空を見上げた。
 私は再び、ナツオさんの顔を盗み見た。そして実感する。私はナツオさんが好きなのだ、と。
 この気持ちを素直に打ち明けられたら、どんなにいいだろう。これまでも、好きになった男性はいる。小学校の同じクラスだった男の子、中学の先輩。だが、告白したことは一度もない。もし、私のことが好きじゃなかったらどうしようという不安が先に立ってしまうのだ。だから、いつも少し離れたところから眺めるだけ。そんな奥手な自分を何とかしたいと思ったことはあるが、同時にあきらめている部分もあった。
 それにナツオさんには──
 私は一週間前、ナツオさんに連れられて訪れたマリンスポーツ・ショップのお爺さんが教えてくれた話を、また思い出していた。
 ナツオさんには一年前、恋人がいた。船木南さんという、ナツオさんと同い年で、同じ大学に通っていたひとだ。二人は高校時代に知り合い、一緒にサーフィンを始めたのだという。
 サーフィン歴は同じだったが、その腕前は南さんの方が上だったとお爺さんは言っていた。ナツオさんのサーフィンは素人目にも、とてもうまいと思うが、それ以上にうまかったというのは、にわかには信じられない。しかし、ローカル(地元という意味)のサーファーたちの中では二人とも有名で、雑誌の取材もよく来ていたという話だ。
 その話が本当だと確信できるほど、写真で見た南さんは、とてもきれいなひとだった。真っ黒に日焼けした肌、そして見事に引き締まったプロポーションをしており、いかにもサーファーという感じだ。だが、男勝りなトゲトゲしさはなく、ナツオさんと並んでいる笑顔は無邪気な少女のようで、私には眩しく見えた。きっと、私なんかがとても及ばない、素敵な女性だったに違いない。そして、私同様、ナツオさんが好きだったのだ。
 その南さんは一年前、この湘南の海で亡くなった。関東地方に台風が直撃した日の朝、ナツオさんとサーフィンに出掛け、事故に遭ったのである。まだ二十歳。命を落とすには若すぎる年齢だ。
 当然のことながら、ナツオさんは悲嘆に暮れた。南さんを誘ったのはナツオさんだったのだ。いくら高い波を求めていたとは言え、わざわざ危険な台風の日を選び、最愛の人を失ってしまうという最悪の結果。お爺さんの話では、当時のナツオさんはとても見ていられないほどだったと言う。
 今はかなり立ち直っているように見えるが、心の奥底では、まだ南さんを忘れられないのだろう。その証拠に、お爺さんの店の奥には南さんが使っていたサーフ・ボードが預けられており、ナツオさんからメンテナンスを頼まれているのだ。そして時折、そのサーフ・ボードに会いに来るのだと言う。私が店に連れられて行った日も、ナツオさんが南さんのサーフ・ボードを前に何かを語りかけているところを、私はこっそり見てしまった。
 きっと南さんが生きていれば、今日の花火も私とではなく、南さんと来ていたはずだ。そう考えると、私は今、ナツオさんの隣にいることが申し訳なく思えてくる。もちろん、ナツオさんは私を南さんの代わりだなんて思っていないだろう。サーフィンを教えている年下の生徒くらいにしか、私を見ていないはずだ。でも、私はナツオさんをサーフィンの先生以上の存在として見ている。一人の男性として。
 私はナツオさんから花火へ視線を移した。ひときわ大きな花火が打ち上がる。夜空に大輪の花を咲かせ、一瞬にして消えてしまう花火は、まるで私の恋を暗示しているかのようだった。


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