その日の夜、私は早めに夕食を済ませると、自室に引きこもり、テレビのニュースに釘付けになった。お爺さんが言った通り、台風十一号は太平洋沿岸をなぞるような予想進路で、南関東に近づいている。非常に大型の台風だ。直撃を受けた九州地方は甚大な被害を受けており、大きく報じられていた。現在位置は四国の東海上。このままの速度で進めば、明日の未明には関東に達するとのことだった。
私は真っ暗な部屋の中でテレビだけをつけ、気象情報に注意し続けた。出来れば予想進路を大きく外れてくれればと願う。
同時に携帯電話でナツオさんを呼び出してみた。ナツオさんに電話を掛けるのは初めてのことだ。だが、ナツオさんは携帯電話の電源を切っているようで、まったく応答がない。おそらく、私やお爺さんが説得しようとするのを見越してのことだろう。こうなったら、直接、自宅にまで行って引き止めたいところだが、残念なことにナツオさんがどこに住んでいるのか、私は知らなかった。
そうだ、風間さんなら知っているかも知れない。私は風間さんに掛けてみた。しかし、風間さんもまた通じなかった。どこかへ遊びに出掛けているのかも知れない。私は時間をおいて何度も掛け直してみたが、夜中を過ぎても連絡が取れなかった。
NHKの台風情報は、深夜も流されていた。それだけ大規模な台風だという証拠だ。予想進路はほとんど変化がない。私はジッとしていることしか出来ず、きりきりと胃が痛むような思いをした。
そのうち、私はうつらうつらと眠ってしまったらしい。ハッと目が覚めたのは、激しい雨音のせいだった。雨戸が強い風にガタガタと鳴っている。
私は慌てて時計を見た。五時すぎ。つけっぱなしのテレビはキャスターが台風情報を伝えていたが、それを皆まで聞く必要はなかった。叩きつけるような雨と風の音を聞けば、台風がやって来たのは明白だ。
私は部屋を出て、玄関へ向かった。家族たちは目を覚ましただろうか。だが、外の音が私の立てる物音を消してくれたようで、誰も気づいた様子はなかった。
私は玄関のドアを開けた。途端に風と雨が吹き込んでくる。それだけで私は転倒しそうになった。だが、態勢を低くして、一歩一歩、前進する。この際、傘は持っていても用を為さないので置いていく。玄関を出ただけで全身がびしょ濡れになった。
私は海へ向かった。ナツオさんがいつもサーフィンをしている浜だ。普段ならば十分くらいで着けるのだが、今は激しい風雨が行く手を阻んでいる。体は常に前傾姿勢を取っていないと、風に吹き飛ばされてしまいそうだ。ガードレールがあるところでは、手すり代わりにして進んだ。電柱に身を預け、休憩もした。わずかな距離が途方もなく遠く感じ、私は音を上げそうになった。雨を含んだTシャツは何倍も重くなり、私の体温を奪っていく。
しかし、ナツオさんのことを考えると、一歩、また一歩と足を踏み出すことが出来た。この台風の中、ナツオさんは来ているだろうか。
いや、来ている。根拠は何もないが、私には確信があった。
雨と風の音が入り乱れる中、私の耳に波の音が聞こえてきた。海だ。やっと辿り着いた。私はより気を引き締め、砂浜に降りた。
視界は豪雨のせいで、ほとんど効かなかった。だが、波打ち際まで近づいて、ナツオさんの姿を探す。台風に煽られた波は、容赦なく私に降りかかってきた。まるでバケツの水を何杯も浴びせられているようだ。あまり海の方へ近づくと、高波にさらわれてしまいそうだった。波には充分、気をつけなくてはいけない。私は声を限りに叫んだ。
「ナツオさーん!」
精一杯の大声が、自分でも愕然とするほど、風雨と波の音にかき消されていた。それでも構わず、私は呼び続ける。
返事はなかった。五メートルも離れれば、声も通らないのだから無理もない。しかし、他にナツオさんを捜す手段が思い浮かばなかった。ナツオさんはこの海のどこかにいる。きっといる。
どのくらいナツオさんを捜していただろうか。砂浜をこちらへ走って来る車があった。見覚えがある。あれは風間さんの4WDだ。どうやら浜へ強引に乗り入れたらしい。
4WDは私の近くで止まった。中から風間さんが現れる。
「名美ちゃん、何をしているんだ!?」
風間さんの声はほとんどかき消されていたが、多分、そんなことを言っていたのだと思う。
「ナツオさんを止めなくちゃ!」
私の言葉は風間さんに聞こえただろうか。
風間さんは私の両手を握るようにしてきた。
「ショップの親爺さんから連絡をもらった! ナツオはオレが捜すから、名美ちゃんは車の中にいて!」
今度はちゃんと風間さんの言葉を聞き取れる。だが、私は首を横に振った。
「私も捜します!」
風間さんの手を振りほどくようにして、私はナツオさんの捜索を再開した。
「名美ちゃん、やめるんだ! 危険だよ!」
かすかにそんな言葉が聞こえた気がする。でも、私は大人しく車の中で待つことは出来なかった。でなければ、最初からここへ来たりしない。
風間さんは説得をあきらめたのか、ナツオさんの名前を叫びながら、手分けして捜し始めた。
海は相変わらず荒れ狂っていた。あんな海に出て行ったとすれば、正気の沙汰とは思えない。やはりナツオさんは南さんの後を追うつもりなのだろうか。それとも、死んだ南さんがナツオさんを呼び寄せているのだろうか。いずれにせよ、こんな海でまともなサーフィンが出来るわけがない。いくらナツオさんがうまいと言ってもだ。
「ナツオさーん!」
私はナツオさんの無事を祈りながら、海に向かって叫んだ。渦巻く雨雲のせいで、海は暗闇のように見え、不気味な海鳴りを響かせている。ナツオさん、死なないで。どうか、無事でいて。
果たして私の祈りが通じたのか、大きくうねる波間に何かが見えた。その小さな影は、次に見えた瞬間、少しだけ大きくなる。それはサーフ・ボードの上に誰かが立ち上がったシルエットだと、私は直感した。