「ナツオさん!」
ナツオさんは生きていた。嵐の中、小さなサーフ・ボードの上で。もちろん遠すぎて、本当にナツオさんなのか確認のしようもないが、私には分かる。私は叫びながら、ナツオさんに向かって手を振った。
しかし、暴風雨にさらされた海は、湘南一のサーファーをも翻弄していた。ナツオさんの態勢が崩れる。やはり津波のようなうねりの中では、まともにテイクオフをしていられないに違いない。私は思わず悲鳴を上げそうになった。ナツオさんを助けなきゃ。でも、どうすればいいの?
私は周囲を見渡した。その目に風間さんの4WDが飛び込んでくる。その屋根にはカバーがかぶせられたサーフ・ボード。私は躊躇することなく、風間さんの車に駆け寄った。
私は風間さんのサーフ・ボードを取り出した。そして、びしょ濡れの服を脱ぐ。下にはあらかじめ水着を着ていた。私はサーフ・ボードを抱え、海の方へと砂浜を走った。
強風がボードを直撃し、その煽りをまともに受けた私は転倒した。痛みに顔をしかめる。だが、ここで泣いている場合ではない。ナツオさんが危ないのだ。
そんな私の様子を、ようやく風間さんが気づいた様子だった。
「名美ちゃん、何をするんだ!?」
風間さんは慌てたように、私の方へ走り出した。だが、すぐに風間さんも転倒する。どうやら風間さんの方は、打ち上げられた流木に足を取られたようだった。おまけにケガをしたようで、すぐには立ち上がれそうもない。
風間さんのケガも心配だったが、私はサーフ・ボードを再び抱え、海に入った。身を放り出すようにして、ボードの上に乗り、パドリングをする。
だが、そんな私に、すぐさま大きな波が襲いかかってきた。私はとっさに、ナツオさんが教えてくれたことを思い出す。小さな波はボードを沈め、自分の下に波を通すプッシングスルーで乗り越えるが、大きな波ではそれが通用しない。よって、大きな波のときは、ドルフィンスルーという技術が必要だった。それはナツオさんから教わっていたものの、まだ実際には試したことがない。何しろ、ここまで大きな波に遭遇するのは初めてだった。
だが、今はそんなことを言っていられなかった。波を越えることが出来なければ、ナツオさんがいるところまで辿り着けないのだ。私はドルフィンスルーをぶっつけ本番で試すことになった。
大波が眼前に迫る。海面で寝そべっている格好なので、余計に高さが感じられた。恐怖心に身がすくみそうになる。しかし、私は思い切って、ボードを沈め、自らも海の中に潜った。
ドルフィンスルー──それはボードごと沈むことによって、波の下をくぐり抜ける技だった。
私の体はボードごと浮き上がった。まるでイルカが海上に飛び上がるような勢いだ。もちろん、実際はそこまで飛ぶはずはないだろうが、感覚としてはそれに近い。目を開けると眼前の大波は消失していた。ドルフィンスルーが成功し、大波をかいくぐることが出来たのだ。
しかし、私にホッとしている暇はなかった。第二、第三の大波が私の方へ押し寄せてくる。私はドルフィンスルーを連続して使った。それは波との格闘だったと言えるだろう。とにかく私は必死だった。
いくつの大波を越えただろうか。二十分くらい泳いだ気もするが、実際はもっと短かったのだと思う。やがて、前方に人影が見えてきた。ナツオさんだ。雨で視界が悪いが、間違いない。
ナツオさんは私に向かって、大きく横へ手をかくような仕草を見せていた。きっと私に気づいて、戻れと言っているのだろう。でも、ここまで来て、戻るわけにはいかなかった。戻るなら、ナツオさんも一緒だ。
そう決意した私の目に、ひときわ大きい波が飛び込んできた。すごい。五メートル、いや、もっと高いかも知れない。壁のような津波がそそり立った。
ナツオさんは──私の方に注意が向いていて、気がついていない。
「ナツオさん、危ない!」
私は叫んだが、ナツオさんの耳には達しなかったようだ。津波がナツオさんの体を、一瞬、引き上げたかと思うと、次の刹那には怪物の牙に砕かれるように、呑み込まれていた。
「キャアアアアッ!」
私は悲鳴を上げた。ナツオさんが、ナツオさんが……。気の動転が私の判断を鈍らせる。私の体もまた、津波に呑み込まれた。
海中で、私の体は翻弄された。まるで大きな洗濯機の中に放り込まれたかのようだ。四肢が、五体が、あちこちに引っ張られる。遠のきそうになる意識。それでも私は浮き上がろうと、必死になって手足を動かした。
「ぷはっ!」
何とか私は溺れることなく、海面へ浮上することが出来た。だが、次々と大波が被さってきて、まともに浮いていられない。ナツオさんに助けられたときを思い出す。しかし、今は誰も助けてはくれない。このままでは、いずれ体力の限界が来て、沈んでしまうだろう。溺れ死ぬのは時間の問題に思えた。