そんな私の元へサーフ・ボードが流れてきた。風間さんから無断で借用したものではない。ナツオさんが使っていた南さんのボードだ。私はそれにしがみつき、ようやく一息つくことが出来た。
だが、ナツオさんはどうなってしまったのか。どうやらボードから放り出されたことは確かだ。私は周囲を見渡した。
いた。豪雨に霞む視界と波のうねりの彼方に、ナツオさんらしい人の頭が見えた。だが、波にさらわれているのか、急速に私から遠ざかっていく。それに意識を失っているのか、泳いでいるようには見えない。このままではナツオさんが溺れてしまう。早く助けに行かないと。
だが、遠ざかっていくナツオさんを助けに行くのは困難に思えた。追いつくには、流されるナツオさん以上の速度が必要となる。私が泳いで、それが可能だとは思えなかった。
残る方法は、私がサーフィンで助けることだ。だが、テイクオフも満足に出来ない私に、ライディングなんてとても無理な話である。さっきは無我夢中でドルフィンスルーを成功させたが、今度はそれの比ではない難しさが伴う。試して、やはりボードから転落してしまえば、ナツオさんの二の舞になるのは必至だった。
「どうしよう……」
ナツオさんを助けたい。でも、そのために自分が死ぬかも知れない危険を冒すことは怖かった。ここまで来ておいて、怖じ気づくなんて。
私は自分の力のなさに涙をこぼした。このままナツオさんを見捨てることになるとは。助けようと思ってここまで来たのに、私は何も出来ないの?
(ライディングするのよ)
「え?」
私は不意に女の人の声を聞いたような気がして、周囲を見回してみた。だが、当然のことながら誰もいない。
(あなたがナツオを助けるの。私も力を貸すから)
また聞こえた。幻聴などではない。確かにハッキリと。
声は耳から聞こえるのではないと気がついた。頭の中に直接、語りかけてくるような感覚、とでも言えばいいだろうか。もちろん、私も初の経験だった。
「南さん……?」
思い浮かんだのは、写真で笑顔を見せている素敵な女性だった。
(さあ、勇気を出して)
私は意を決して、ボードの上に這い上がった。大きな波が来る。タイミングを見計らって、私はテイクオフを試みた。何度も何度も練習で失敗した技術だ。不安定な海上で、体が左右に大きく揺れる。
(行くわよ!)
私はボードの上に立ち上がった。思ったよりも呆気なく。同時に、サッとボードが波の上を滑り始める。
不思議な感覚だった。意識的には私がやろうとしているのだが、体は別のもののように勝手に動いている。まるで別人の体に、私の意識だけが入り込んだような。だが、実際にはその逆なのだろう。今、私の体をコントロールしているのは南さんに違いない。でなければ、私がライディングできるわけがなかった。
私は大きな波がそそり立つ頂点(トップ)を滑っていた。そこから波の斜面を滑り降り、波の底の部分(ボトム)へ到達、そこからさらにターンしてトップに戻るという技を軽々とやってのけた。確かこれを「アップ&ダウン」と言うはずで、ナツオさん曰く、長く波に乗るテクニックだそうだ。初めてサーフィンをしているナツオさんを見たとき、披露していた技である。論理的には、滑り降りたスケボーがそのスピードを生かして再び斜面を駆け登り、上下の移動を繰り返すのと同じだと分かるが、頭で理解するのと体で体感するのとは大違いで、南さんの力ながら、やっている自分に一番、驚いていた。
アップ&ダウンによって、私とナツオさんの距離は確実に縮まっていた。だが、さらなる難関が待ち受ける。先程、私とナツオさんを呑み込んだのと同等の大きな津波が迫りつつあったのだ。
ゴゴゴゴゴゴッ!
怪物の唸り声のような海鳴りとともに、津波は地球の引力に逆らうように持ち上がると、その鋭い爪を振り下ろすかのように、私たちの方へ覆い被さってきた。私は思わず目をつむりそうになったが、南さんがそうはさせてくれない。せいぜい悲鳴を押し殺すのが精一杯だった。
だが、南さんはさすが超一流のサーファー。崩れそうになる波にボードを当て込むようにすると、そこから津波を滑り降りた。
(これがオフザリップよ!)
ナツオさんから教えてもらったことはあるが、実際、目にし、体験するのは初めてだった。体とサーフ・ボードが一体化した感覚。私は態勢を低くとった。
(そして──)
津波は私たちを押し包むかのようだった。波が筒状に巻かれ、空洞部分が出来上がる。
(これがチューブライディング!)
よくサーフィンのビデオなどで見かける光景が目の前にあった。大きな波の崩れが作り出す、筒状の空間。私は今、その中にいた。当然のことながら、このチューブライディングはサーフィンのテクニックの中でも最上級のものに違いない。ほんの束の間、私は我を忘れて、波が作り出すチューブに見取れた。
だが、流されているナツオさんは、その大きな津波に再び呑まれようとしていた。海の底に引きずり込まれたら、今度も無事に浮き上がってこられるとは限らない。
(ナツオを助けて!)
南さんの痛いくらいに感じる懇願。私はうなずいた。言われなくても分かっている。そのときの私は、恐怖心などどこかに飛んでいってしまっていた。
「ナツオさん!」
私はボードを蹴るようにして、荒れ狂う海の中へ飛び込んだ。私はナツオさんに向かって、思い切り腕を伸ばす。指先にまで神経を集中させた。津波が私とナツオさんを押し潰したのは次の瞬間だった……。