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彼女が来る夏

−10−

 気がつくと、私は浜辺に打ち上げられていた。その私の右手が何かをしっかりと握っている。ナツオさんの手だった。近くには南さんのサーフ・ボードも流れ着いている。
 私はケガがないか、自分の身体を確かめるよりも先に、ナツオさんの体を揺り動かしていた。しかし、反応なし。ナツオさんは意識を失っていた。しかも体は冷え切っている。雨は相変わらず降り注ぎ、早く何とかしないとナツオさんは死んでしまうかも知れない。
 どうしよう。私は焦った。焦れば焦るほど、何をしていいのか分からなくなる。
(人工呼吸をして)
 また、南さんの声が聞こえた。そうだ、人工呼吸。
 私は手順を思い出そうとした。夏休みに入る前、保健体育の授業で人命救助の訓練をしたばかりだ。
「まず、気道確保……」
 私はナツオさんの首を持ち上げるようにして、顎を上向かせた。次に、手の平を重ね合わせるようにして、ナツオさんの腹部を数回押す。そして──
 私は自分の唇をナツオさんの唇に重ねた。人工呼吸だが、私にとってはファースト・キス。だが、今は恥ずかしいなんて言っていられなかった。私は手と口による人工呼吸を交互に繰り返した。
 だが、ナツオさんは一向に意識を取り戻す気配はなかった。まるで死んだように動かない。それでも私は続けた。
「ナツオさん……お願い……目を開けて」
 私は泣きながら、ナツオさんに呼びかけた。涙がナツオさんの胸を濡らす。それはすぐに雨と一緒になって分からなくなった。
「ナツオさん!」
 私が強く呼びかけた途端、咳き込むのと同時に、ナツオさんの体が動いた。飲んでいた海水を吐き出す。ナツオさんは意識を取り戻したのだ。
「ナツオさん!」
「ゲホッ、ゲホッ! ──な、名美?」
 ナツオさんは私の顔を見て、名前を呼んでくれた。もう安心だ。私は張りつめた糸が切れたようにホッとすると、しゃくり上げるように泣きながら、ナツオさんにしがみついた。良かった、本当に良かった。
「オレは……そうか、名美が助けてくれたのか……」
 ナツオさんは記憶をたぐるように呟いた。そして、私の髪を優しく撫でてくれる。
 ナツオさんを助けたのは、私ではなく南さんだ。南さんが私の体を使って助けてくれたのだ。
 私はナツオさんにどうやって説明しようか迷った。そのまま話して、信じてくれるだろうか。
 私がためらっていると、
「南……」
 と、ナツオさんが言ったので、驚いた。
「ナツオさん……」
「お前、ライディングしてただろ? よく出来たな。意識が朦朧としてたけど、かすかに憶えているよ。でも、あのときのお前、まるで南に見えた……。南がオレを助けに来てくれたみたいだった……」
 その通りだ、と私は言いたかった。南さんが私の身体を介して、ナツオさんを助けに来たのだ。だが、私の中の南さんは、それを明らかにするのを望まなかった。南さんの寂びそうな表情が脳裏に浮かぶ。そんな南さんを思うと、私は何も言えなくなってしまった。
 どうして、南さん。
(ナツオに必要なのは私という“過去”じゃない。あなたという“未来”よ。名美さん、ナツオをよろしくね)
 次第に私の中の南さんの声が、遠のいていく感じがした。同時に私の中の存在も薄れていく。南さんは行ってしまった。最愛の人に何も告げずに。
 いつの間にか、雨は小降りになり始めていた。あれだけ荒れ狂っていた風も大人しくなってきた気がする。空を見上げると、西の方角から明るくなっていた。どうやら台風の暴風圏から抜けたらしい。
 私とナツオさんは立ち上がった。するとナツオさんが私を向き直らせる。
「ありがとう」
 そう言って、ナツオさんは私の身体を抱きしめた。
 私は南さんに申し訳ない気持ちを持ちつつ、ナツオさんの胸に顔を埋めた。海と雨に冷やされた互いの身体を温め合うように。
 遠くから、私たちを呼ぶ風間さんの声が聞こえてきた。


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