だが、次に目を開いたとき、立ち眩みは嘘のように消えていた。しかし、それよりも驚いたのは、箕子の目の前に立っている人物を見た瞬間だ。
「え!?」
最初、お稲荷さんの境内ということも忘れ、鏡を見ているのかと思った。箕子の前には、箕子とまったく同じ姿をした女の子が微笑みながら立っている。だが、それは鏡に映った箕子ではなかった。
「驚いた?」
目の前の箕子が箕子に言った。私じゃない私。
「ど、どうなってるの?」
箕子は自分の身体を調べた。普段と変わりない。だが、いつの間にか、箕子が立っていた位置は、先程、女の子が立っていた位置になっている。
「うまくいったわ。じゃあ、あとはよろしく」
もう一人の箕子はそう言って、神社から出て行こうとした。箕子は慌てて、それを止めようとする。
「ちょっと、どういうことよ?」
箕子はもう一人の箕子に尋ねた。もう一人の箕子が立ち止まって、振り返る。
「あなたと私は入れ替わったの。私は稲本箕子として、あなたはこの稲荷神社の神様として、一日、過ごせばいいのよ」
「待ってよ! 私はどうなるの?」
「あなたは私が今まで、この神社でやってきた通り、ここへ来る参拝者の願いを聞き遂げてあげればいいのよ。あなたが参拝者の願いを叶えてあげたいなら力を使えばいいし、どうしようもない願いなら無視しても構わないわ。なんたって、あなた、神様なんだから」
「冗談でしょ? 何で私がそんなことを!? 私は神様の力が欲しかっただけで、別にあなたの代わりになんか──」
抗議する箕子に、もう一人の箕子が嘆息した。
「分かってないわねえ。神様って言うのは、自分のために力を使うものじゃないの。自分を信じてくれる人間のために力を使うの。神様が自分勝手に力を使ってたら、今頃、人間なんか滅んでるわよ」
「で、でも!」
「とにかく一日だけなんだから、我慢しなさい。──あ〜、やっと外の世界で羽根が伸ばせる〜。もう、ほとほと人の願いばかりひたすら聞くのって、飽き飽きしたのよねえ。たまにはこうして下界を楽しまないと」
そう言うもう一人の箕子に対して、箕子はふつふつと怒りが込み上げてきた。
「私を騙したのね!?」
だが、もう一人の箕子は平気な顔だ。
「あら、失礼ね。神様の力が欲しいって訊いたら、あなた、欲しいって言ったじゃない。これも参拝者の願いを聞いてあげただけのことよ」
「嘘つき! 詐欺師! この悪魔!」
罵る箕子に、もう一人の箕子は顔をしかめた。
「あまり神様を冒涜するような言葉を使わないでね。バチが当たるわよ。それじゃあ、じっくりと神様の力を味わって」
もう一人の箕子はそう言うと、手を振りながら、鳥居の外に置いていた自転車に跨って、家の方角へ走り去っていった。当然、箕子は追いかける。だが──
ごん!
「あいたっ!」
鳥居を出ようとしたところで、まるで硬い壁のようなものに鼻先からぶつかり、箕子はひっくり返った。どうやら鳥居を境とした目に見えない障壁があるらしい。それは神様でいる限り、この境内から出られないということだ。
箕子は青くなった。こんな淋しい神社に独りぼっちだなんて。
「お願いよ、元に戻して!」
神様になった箕子は泣き叫んだが、その声は誰にも届かなかった。