辺りはすっかり暗くなってしまった。
お稲荷さんに一人取り残された箕子は、鳥居の所から《ほほえみ商店街》を眺めたが、通り過ぎる人は少なく、それが余計に寂しさを感じさせた。
通りがかる人に「助けてください」と呼びかけてみた箕子だが、神様となった今、その声は誰にも聞こえなかった。たまに霊感が強い人なのか、ふっとお稲荷さんの方を見る者もいたが、さすがに箕子に気づくことはなく、何事もなかったかのように行ってしまう。箕子はため息をついた。
せっかく神様と入れ替わったというのに、楽しいことなど一つもなかった。境内から出ることは出来ず、さらに誰もお参りに来る者はいない。携帯電話で英美とおしゃべりでも出来れば気も紛れるのだろうが、もう一人の箕子──つまり、この稲荷神社の神様のことだが──が鞄ごと持って行ってしまっている。仮にあっても、神様が携帯電話をかけられるかどうか。
箕子は絶望感に打ちひしがれていた。何があろうとも、明日の夕方になるまで、ここから出られそうもない。そう考えると泣きたくなる。明日の日曜日は俊雄の練習試合を応援に行くつもりだったが、それも叶いそうになかった。
小野有紀が俊雄にお弁当を作るという発言も気が気ではない要因の一つだ。俊雄は有紀をどう思うだろうか。やはり女の子に手作りのお弁当を作ってもらって悪い気はしないだろう。そのまま二人が付き合い始めるなんてことも。そんなことを考え出すと箕子は気が狂いそうだった。
「きゃっ!」
そんなことを鳥居の入口でぐちゃぐちゃと考えていた箕子は、いきなり真正面にヌッと現れた人物に驚き、悲鳴を上げた。
しかし、やって来た男はまったく無頓着に鳥居をくぐり、箕子の体をすり抜け、平然とお稲荷さんの社へ進んでいく。臨時の神様である箕子の姿が見えないのだから無理もない。
箕子の方はと言えば、心臓が止まりそうなくらいビックリし、地面に尻餅をついていた。乙女にあるまじき格好である。俊雄には見られたくない。
「もお、いきなり入って来ないでよね!」
箕子は男に抗議したが、もちろん通じるはずもなかった。
そこでようやく、箕子はやって来た男が誰なのかを知った。
楢崎守男。特に親しいわけではないが、この近所に住んでいる者ならば知らない者はいない。駅前のスーパーマーケットの近くにあるドラッグ・ストアの店主だ。
楢崎は昔、駅前で小さな薬局を営んでいたと言う。元々は《ほほえみ商店街》で店を開いていたのだが、ちょっとしたボヤ騒ぎを起こしたのが原因で、地主から追い出され、当時はまだ何もなかった駅前に移転したそうだ。だが、《ほほえみ商店街》からは外れていたため、その後の売り上げはあまり良くなかったらしい。
ところが、駅前にスーパーマーケットが出店したことによって、立場は逆転した。楢崎は積極的にスーパーの誘致を働きかけ、反対する商店街の人たちにも、スーパーの出店は地域発展にもつながり、商店街も潤うはずだと、うまいこと丸め込んだらしい。結局、客は便利なスーパーばかりを利用し、その近くで店をやっていた楢崎は恩恵を受け、今では店舗を拡大したドラッグ・ストアを経営。逆に商店街は寂れていったというわけだ。商店街の人たちの中には、今も楢崎のことを悪く言う者は多い。
箕子も楢崎のドラッグ・ストアを利用したことはあるが、薬品を買おうとすると値段の高い品を勧められることが多く、辟易していた。当人曰く、効き目があるからとのことらしいが、それよりは少しでも儲けようと言う卑しさが感じられ、楢崎にあまりいい印象は持っていない箕子だ。
だから、箕子が神様と入れ替わってから最初の参拝客が楢崎というのは、正直、顔を歪めたくなるのだった。
「何しに来たのよ、こいつ」
箕子は毒づきながら、賽銭箱の前で立ち止まった楢崎に近づいた。
しかし、よくよく考えてみれば、楢崎も元は《ほほえみ商店街》の人間。昔から、この稲荷神社に参拝していたのかも知れない。そして自らの商売繁盛を祈っているのかも知れなかった。
楢崎はズボンのポケットから小銭入れを取り出すと、中から一円玉を一枚、つまんだ。そして、無造作に賽銭箱へ放り投げる。
カタッ
何とも安っぽく軽い音がした。一円玉なのだから無理もない。
箕子は唖然とした。ドラッグ・ストアを成功させた店主が、いくら賽銭とは言え、たった一円しか出さないとは。ケチにも程がある。
だが楢崎は平然としたもので、柏手を打って、祈り始めた。
『今日も一日、儲かりました。お客なんて薬に関してはド素人。結局、最後にはこっちの言葉にうなずくしかないんですから。また、高い薬をジャンジャン売りたいです。明日もお願いします』
突然、楢崎の声が聞こえてきて、箕子はビックリした。楢崎は口に出して喋っていない。心の中で祈っているのだ。その祈りが箕子の頭の中に、直接、聞こえてきた。
「嘘みたい……」
それはやはり神様──の代わり──だからこその能力だったに違いない。参拝者の祈りを聞く力。当たり前のことながら、それがまず可能でなければ、願いを聞き届けることは出来ない。
だが、臨時の即席神様である箕子にしてみれば、それは新鮮な体験だった。そして、やっと初めて神様になったことに心が弾んだ。神様って、ちょっと面白いかも。
そんな神様の事情など露知らず、楢崎は願い事を続けた。
『──それから近いうちにパブ“シャム猫”のアケミちゃんとデートできますように。あっ、マコちゃんの方でも構いません。二人には散々、貢いだんですから、そろそろ誘いに乗って来てもいいでしょう。──でも、ウチの母ちゃんには内緒です! 母ちゃんに知られたら殺されます!』
箕子は呆れた。
「男って、どうしてこう浮気をしたがるんだろ! しかも、こんないい歳したオヤジが。サイテー!」
それでも楢崎の願いは、まだ尽きなかった。
『──そう言えば、今日、店の方に怪しい男がやって来ました。ひょっとして、国税局の人間でしょうか? もし、そうならば、裏帳簿の存在がバレませんように!』
「え? 脱税してるの!?」
楢崎の秘密の告白に、箕子は思わず大きな声を上げた。そして、慌てて口を押さえる。
だが、人間である楢崎に、神である箕子の声は聞こえない。つい、生身の体を持っているつもりになって息を止めた箕子だったが、改めて自分が神様だと気づき、大きく息を吐き出した。
一方、楢崎はと言えば、持っていた鞄からビニール袋に入ったバインダーのようなものを取り出した。そして、お稲荷さんの入口の方を気にしながら、社の裏へそれを隠そうとする。社の裏は茂みが生い茂り、子供でも入り込めないような細い隙間しかない。楢崎は腕を目一杯、伸ばすようにして、バインダーを押し込んだ。
そんな楢崎の怪しい行動を見て、箕子はピンと来た。あれが問題の裏帳簿に違いない。きっと楢崎は国税局に踏み込まれるのを恐れて、ここへ隠そうと考えたのだろう。このお稲荷さんはあまり人が来ず、隠し場所としては打ってつけと言えた。
箕子は段々、楢崎を許せなくなった。
「こんな人、天罰でも下ればいいんだわ! だいたい、たったの一円でこんなにお願いするなんて、虫が良すぎるわよ!」
楢崎は裏帳簿を隠し終えると、手の泥を払って、また賽銭箱の前に立った。この上、まだ願い事があると言うのだろうか。
『最後にもう一つ! 弟の伸男のことですが、四十近くにもなるのに未だに定職に就かず、ブラブラした生活が続いています。挙げ句の果てにはウチに来て、小遣いをせびる始末。どうかヤツが真っ当な人生を歩めますように』
「そんなことまで知るもんですか!」
箕子は腹を立てて、怒鳴りつけた。
「何でもかんでも神頼みだなんて! 少しは自分で解決してみなさいよ! 血を分けた兄弟でしょ!」
そんな箕子の怒りが届いたわけでもあるまいが、楢崎はようやく願い事を終え、境内から出て行った。
箕子はこんな下らない願い事まで聞かなくてはいけないのかと、早くも神様の仕事がイヤになった。