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神様はつまらない

−9−

 小野有紀のとんでもない願い事を聞かされた箕子は、怒りのあまり、稲荷神社に一人残された寂しさを忘れていたが、自分が明日の夕方まで元に戻れないことを思い出すと、急速に気持ちが萎えていった。
 有紀にはシャクだが、結局、明日の練習試合は見に行けないのだ。つまり、明日、有紀がどのように俊雄にアタックしても、箕子には邪魔することも出来ない。元に戻ったところで、すでに俊雄と有紀がくっついてしまえば、それで終わりである。
「こんな神様にさえならなければ、その前に告白の一つもできるのに……」
 そんな独り言を呟いた箕子だが、現実的に考えても、告白をする勇気なんか持てそうもなかった。それが出来るくらいなら、もっと早くに告白しているはずだ。結局は有紀に取られてしまう運命なのかと思うと、なおさら落ち込む箕子であった。
 そこへ一人のお婆さんが、小さなバッグとコンビニのビニール袋を下げて、えっちらおっちら、稲荷神社へとやって来た。
 かなり高齢で、足下も危なげだが、普通の人の五倍も時間を掛けて、賽銭箱の前まで辿り着く。夜で視力も弱っているだろうに。箕子は生身の体があれば、手を添えてやりたいところだった。
 箕子がそんなことを考えているうちに、お婆さんは手に持っていたビニール袋から、何か柔らかい物を取り出した。箕子にはハッキリと見える。油揚げだ。その油揚げを、元々、供えてあった古い油揚げと交換する。きっとこのお婆さんは、毎晩、この稲荷神社へ来て、ここのお稲荷さんのために油揚げをお供えしているのに違いなかった。そして、おそらくはこの《ほほえみ商店街》に、長年、住んでいるのだろう。
 そんなお婆さんを見ているうちに、箕子の気持ちは安らいでいった。思わず、ずっとずっと長生きして、ここへ通ってもらいたいと願う。
 お婆さんは古い油揚げを片づけると、蝦蟇口を取り出して、十円玉を賽銭箱に入れた。
 お婆さんの願い事が箕子に届く。
『お稲荷様。どうぞ、孫娘の喘息を治してやってください。もう一年以上も苦しんでおります。このままでは、あまりにも可哀相です。どうか、健康で元気な生活を孫娘に与えてやってくださいませ』
 お婆さんの必死な願いは、箕子の心を打った。
「分かったわ、お婆ちゃん。お孫さん、元気になるといいね」
 楢崎、そして有紀と、ロクな参拝者がいなかったが、このお婆さんの願いは聞き届けてやりたいと思う箕子であった。
 お婆さんはお稲荷さんへの参拝を終えると、またおぼつかない足取りで、家へ帰っていった。
 ところが、出口である鳥居に差し掛かったところで、お婆さんの前に一人の男が立ちはだかった。お婆さんが怪訝そうに顔を上げる。
「金を出せ」
 男は押し殺した声でお婆さんを脅した。
 境内はロクな照明が設置されておらず、とても暗かったが、とりあえず今は神様である箕子には男の顔がハッキリと見えた。四十歳くらいの貧相な男だ。手には銀色に光るものが。箕子に緊張が走る。
「お婆さん、逃げて!」
 箕子は声を上げた。相手は強盗に違いない。
 お婆さんは驚きのあまり、声も上げられないような状態だった。全身が硬直したようになって、動けない。
 男はその様子を見るや、お婆さんの手からバッグをひったくった。
「ドロボウ!」
 お婆さんの口から、ようやく悲鳴混じりの声が上がった。突然、大きな声を上げられて、男はひるむ。
「この野郎!」
 男はお婆さんを乱暴に突き飛ばした。箕子はアッと思ったが、今の状態では助けようがない。お婆さんは地面に腰を打ちつけ、砂利の上に転がされた。
 それでもお婆さんは懸命に、「ドロボウ! ドロボウ!」と叫び続けた。それは、お婆さんの小さな身体からは想像もできないほど大きな声で、きっと就寝していた近所の人にも聞こえたはずだ。
 男は身の危険を察知し、お婆さんのバッグを持ったまま、その場から逃げ出した。箕子は追いかけようとしたが、神様の制約によって境内から出ることは出来ない。それにお婆さんがケガをしていないか心配だった。
 お婆さんは腰をしたたかに打ったらしく、その場から動くことは出来なかった。出来ることと言えば、大声を出すことだけだ。
 本当ならば、箕子は警察や救急車を呼んだり、逃げた強盗犯を追いかけたかったが、お婆さんに何もしてやれなかった。ただ、誰でもいいから早く来て欲しいと願った。
 それから一、二分後、お婆さんの声を聞いた近所の人たちが、ようやく稲荷神社へと駆けつけてきた。
 大きな騒ぎになっていく現場を眺めながら、箕子はホッとすると同時に、悔しさを滲ませた。


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