男は三十代半ばくらいの、そこそこ二枚目だった。黒っぽいスーツをラフに着ているような感じで、普通のサラリーマンとは思えない。やはり、紗彩と同じくマスコミ関係だろうか。
紗彩は初め、緊張しているように見えたが、男がくわえタバコをしながら何かを話しかけると、たまらずに吹き出した。冗談でも言われたか。しかし、それがきっかけで、紗彩の堅くなっていた態度はリラックスしたように見えた。
二人はコーヒーを飲みながら談笑を始めた。傍目から見ていると、まるで恋人同士みたいに。
私はそんな場面に直面し、思わず狼狽した。
まさか。まさか、そんな……。
紗彩も年頃の娘だ。付き合っている男性がいてもおかしくはないが、ずっと紗彩を見守っていた私が、今このときまで、その存在にすら気づかなかったとは。正直、ショックだった。所詮は日本全国に名を知られている人気女子アナとただのタクシー運転手。何度、彼女を車で送り届けようと、住む世界が違いすぎるのかもしれない。
私は二階席の紗彩を見上げたまま、茫然としていた。
果たして、どれくらいそうしていただろう。多分、十分以上はそうしていたかも知れない。
道端でそんなことをしていれば、通りがかった通行人から不審がられそうなものだが、幸い、この六本木交差点にあるアマンドの前は待ち合わせのメッカ。突っ立っていても、誰も咎めはしない。
やがて、私は我に返った。このまま、こうしていて何になるというのだ。紗彩には紗彩の私生活がある。それを私がどうこう言っても始まらないではないか。
私は車に戻ろうとした。しかし、私はすぐ近くに立っていた男に気づき、ギョッとする。
その男は二十代前半から半ばくらいの若い男だった。清潔感の感じられぬ長髪に、神経質な印象を受ける眼鏡、全体的に肌が病的なまでに白く、痩せ気味で、色あせたカジュアルな上着に、すり切れそうなジーパンという出で立ちだ。タクシー乗務員である私がこんなところに立っていて言うのもなんだが、あまり六本木にはふさわしくない感じである。
だが、何よりも私を驚かせたのは、男が小型のビデオ・カメラを持って、撮影していることだった。しかも、先程の私と同じように、アマンドの二階を見上げている。
男が撮影しているのは、紗彩に間違いなかった。芸能人のスキャンダルを飯の種にしているマスコミだろうか。いや、男からはそういう仕事をしているような感じは見受けられない。あくまでも趣味でやっているように私には思えた。
まさか、こいつが紗彩のストーカーでは?
読んでいた週刊誌の記事が頭によぎり、私はまじまじと男を見てしまった。男の方は、どうやら撮影に夢中のようで、こちらには気づかない。一方、交差点で信号待ちをする人々も、こんな交差点で撮影をしている男に奇異な視線は向けるものの、皆、無関心を装って立ち去っていった。
男は撮影しながら、何かをぶつぶつと呟いていた。街の騒音で聞きづらいが、私は懸命に耳をそばだててみる。
すると──
「チクショウ……チクショウ……! 紗彩ちゃんに馴れ馴れしくしやがって、あの野郎……! 紗彩ちゃんも、あんなヤツに笑いかけることなんかないのに!」
と、罵るような言葉を吐いていた。それを聞いて、私はゾッとする。やっぱり、この男は紗彩のストーカーだ。
こんなヤツをこのまま放置していていいのか? いずれ、紗彩を傷つけるようなことをしないだろうか?
六本木交差点の近くには、麻布警察署がある。私はそこで、このストーカーのことを話そうかと思案した。
しかし、警察というのは、まず事件が起きてからでないと動かないところだ。今、この男が行っている盗撮行為がどれほどの罪になるか。街の風景を撮っているのだと言われれば、それまでだ。そこまで言い訳が出来なくても、きっと、この場で注意されるだけで終わるのが関の山だろう。
それに私が警察へ赴くというのも抵抗があった。私は今のこの生活を守りたい。ここで警察やストーカー犯と関わりを持ったら、それが壊れてしまうような気がした。それは避けたいことだ。たとえ臆病者だと罵られても。
結局、私は紗彩に何もしてやれず、その場から離れるしかなかった。紗彩に何事もないよう願う。
だが、車へ戻るまで、私は次第次第に不安が募った。紗彩が男と一緒に出てきたとき、あのストーカーが逆上しないか、心配になってくる。妄想に浮かぶ惨劇。結局、車へ辿り着いたときは、居ても立ってもいられなくなってしまった。とりあえず、もう一度、様子を見てこようと、車を交差点の方へと走らせる。そこで何もなければ良しとしようと決めて。
六本木交差点へは大回りして戻ってこなければならなかった。私が車へ戻る時間と交差点へ引き返す時間で、あれから十分は経過している。
交差点への左折ウインカーを出しながら信号待ちをしていると、ちょうどアマンドから紗彩と男が出てくるところだった。ストーカーの男は、ビデオ・カメラをしまい、待ち合わせを装いながら、紗彩たちの方を観察している。当然、紗彩たちはストーカーに気づかない。
男は軽く右手を挙げて、紗彩に別れを告げると、そのまま六本木ヒルズの方へ歩いていった。仕事へ戻るのだろうか。紗彩は会釈して、それを見送る。そして、通りがかったタクシーを止め、それに乗り込んだ。
私が左折しようとしている方向と同じだった。多分、これからテレビ局へ向かうのだろう。
私は何事も起きず、ホッと胸を撫で下ろした。
しかし、次の瞬間、私は心臓を鷲掴みにされたような気分を味わった。ストーカーの男が信号を渡って、私の方へ手を挙げてきたのだ。
どうやら私の車に乗って、紗彩を追いかけるつもりらしい。どうする。乗車拒否して、行ってしまおうか。
しかし、私のすぐ後ろにも別のタクシーがいた。私が乗せなくても、後ろのタクシーがストーカーを乗せるだけだ。信号が変わる。私は素早く決断した。
私はストーカーの前で車を止めた。そして、後ろのドアを開ける。ストーカーは転がり込むように乗車してきた。
「あのタクシーを追って!」
やっぱりだ。ストーカーは尾行を指図してきた。
私はとっくに予想していたが、
「は? どういうことです?」
と演技してやった。この隙に紗彩が乗ったタクシーが見失ってしまうほど遠くへ行ってくれればと思う。
するとストーカーは神経質そうに顔を歪め、苛立った様子を見せた。
「いいから! 早く車を出してくれ! そのまま真っ直ぐでいい!」
私はもう少し時間を稼ごうかと思ったが、あまり怒らせて、他のタクシーに乗り換えられるのも困る。仕方なく車をスタートさせた。
ストーカーは座席から身を乗り出すようにして、紗彩の乗ったタクシーを探そうとしていた。だが、私はあくまでも安全運転。それに、どういう道を通ってテレビ局へ行くかは、タクシー運転手なら予測がつく。
とはいえ、高速道路と違い、信号機が乱立する都心では、前を行く車を見失うということはなかった。すぐに差は縮まり、六台ほど間をおいて、紗彩の乗ったタクシーが見えてくる。どうやら私の苦労はムダだったようだ。
ストーカーも紗彩の乗ったタクシーに追いついたので満足したのか、ようやく座席にもたれる余裕が出てきた。バックミラー越しに覗き込むと、口の端を醜く歪めるストーカーの顔が見て取れる。どうして、よりにもよって、こんな危なそうなヤツが紗彩に目をつけたのか。私は気まぐれな運命の神に悪態をつきたくなった。
結局、私はストーカーの指示通りに、紗彩のタクシーを追いながら、運転しなくてはならなかった。紗彩は尾行されているなど夢にも思っていないに違いない。何とかして、このストーカーの魔の手から紗彩を守らなければ。しかし、今の私にはどうすることも出来ない。
とうとう、レインボー・ブリッジに差し掛かった。ストーカーは紙袋からビデオ・カメラを取り出すと、窓越しにテレビ局を撮影し始める。そのときの顔は、まるで舌なめずりでもしそうな感じで、見ているこちらがおぞましかった。
紗彩を乗せたタクシーはテレビ局の前で停まった。修学旅行らしい学生たちが、降りてきた紗彩に気づいて、キャーキャー騒ぎ始める。紗彩はそれに照れながら、駆け足で中へと入っていった。
一方、私の車はといえば、その手前の信号機で止まっていた。信号は黄色だったので、別に直進しても良かったのだが、少しでもこのストーカーを紗彩から引き離すためだ。
ストーカーは下車した紗彩をすぐに追いかけることが出来ず、舌打ちした。そして、私にテレビ局の前で降ろすよう命じる。
信号が変わって、ストーカーを降ろしたときは、すでに紗彩はテレビ局の中に入った後だった。局社の中なら安全だ。入口には警備員が立ち、出入りする者を厳しくチェックしている。ストーカーのように、ビデオ・カメラを持っていたら、まず入れてもらえないだろう。これなら仕事が終わるまで、紗彩は大丈夫だ。
一時はどうなるかと心配したが、結局、ストーカーは何もできなかった。
だが、これで安心は出来ない。あのストーカーが、単なる紗彩の追っかけで終わるとは思えなかったからである。
私は未練がましいストーカーを横目に見つつ、一旦、テレビ局から離れた。