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深夜タクシー

−4−

 私は夕方近くに遅くなってしまった昼食を取ってから、芝浦の倉庫街の一角に車を止め、休憩していた。
 いつもなら夜の稼ぎ時前に、三十分くらい仮眠するようにしている。私の場合、勤務時間が昼から翌朝までと長いため、会社からも三時間程度の休息は取るよう指導されているのだ。自己の体調管理は、タクシー運転手にとって、安全運転をするためにも大切なことなのである。
 しかし、今日に限ってはまんじりとも出来なかった。言うまでもなく、紗彩をつけ回しているストーカーのことが頭から離れなかったからである。
 ただのファンならば一向に構わない。芸能人の熱烈な追っかけなど、いちいち地方公演にまで付いていくと聞く。その類ならば害にはならないだろう。
 だが、あのストーカーの行動は明らかにコソコソしていて、卑屈に見えた。ファンなら堂々と本人にサインや握手を求めればいいではないか。それをビデオ・カメラで盗撮し、なおかつ紗彩に気づかれないよう装っている。そこが気にくわなかった。
 もちろん、人間も千差万別で、どうしても行動で示せない内気な者もいるだろうが、私が見た限り、そんな印象よりも、変質者という言葉の方がふさわしい気がした。いつか何かが起きるのではないか。そんな不安が重くのしかかって来るのだった。
 そして、もう一つ。いくら私が考えまいとしても、紗彩が六本木で待ち合わせをしていた男のことが気になって仕方がなかった。
 彼は一体、何者なのか。こちらは紗彩と交流のある人物なのだから、そんなに心配はいらないはずだが、今日まで紗彩のすべてを知っていると自負していた私が、あの男に関して、まったく知らなかったというのはシャクだ。それに、わざわざ出社を遅らせてまで紗彩が会おうとしたことに、とても重要性を感じる。
 紗彩と男の関係について考えを巡らせると、私は衝動的な焦りのようなものを覚えた。休憩しているはずなのに、ジッとしていられなくなる。
 私はシートから背中を離すと、休憩を切り上げて、勤務に戻った。仕事をしていれば、少しは気も紛れるだろうと思って。
 しかし、こういうときに限って客はつかまらなかった。私は一人、舌打ちする。そして、駅前のタクシー乗り場で客を拾おうと車を向けた。
 品川駅のタクシー乗り場へ来ると、先に五、六台のタクシーが並んでいた。一方、客はといえば期待に反してゼロ。仕方なく、私は後列に並び、客待ちをしながら車内の液晶テレビを点けた。
 偶然にも紗彩が出ていた。テレビ局近くでの中継なのか、マイクを持ってリポートしている。今、お台場ではテレビ局主催によるイベントが開催されているのだが、その模様を伝える宣伝番組のようだ。紗彩の後ろには、イベントに集まった観客が押し合いへし合いしながら、カメラにVサインを掲げていた。
「──というわけで、次へ行ってみたいと思います。カメラさん、ついてきてくださいね」
 紗彩はそう言うと、小走りに移動した。カメラが揺れながら追いかける。あちこちから紗彩への声援が飛んだ。紗彩はそれに手を振りつつ、アシスタント・ディレクターや他のスタッフたちが体を張って作っている道を通り、次のイベント会場へ到着した。
「はい。こちらは水曜夜八時から放送中のバラエティー番組『ゼニカメ!』のブースです。人気コーナー『天国と地獄』に誰でも参加することが出来ます。優勝した方には、番組特製のオリジナル・グッズがもらえるんですよ」
 紗彩は、番組に似せて作られた『天国と地獄』のセットを後ろにして、イベント内容を説明した。
 カメラは時折、野次馬のように集まってきた人々を映し出す。
 その中の一人の男に、私は見覚えがあった。ハッと息を詰める。
 チラッと映っただけだが、間違いない。六本木から紗彩を追いかけたストーカーである。あのときと同じように、ストーカーは紗彩に向けてビデオ・カメラを回していた。
 どうやらストーカーは、今日の夕方、紗彩がこの番組でイベント会場へやって来ることを知っていたらしい。それであのままお台場に残っていたのだ。
 私はとてもイヤな予感がした。紗彩の身に何かが起こりそうな悪い予感である。私はすぐにでも紗彩の元へ駆けつけなければならないと思った。
 しかし、駅前で客待ちをしている私の車は、すでに前後を他のタクシーに挟まれ、身動きできなかった。ハンドルを切り返して、横へ抜けることもできない。私は早く前のタクシーが客を乗せて、走り出してくれることを願った。
 とても長く感じられた五分後。ようやく私の車は列の最前列まで辿り着いた。タクシー乗り場には続いて乗ろうとしている客がいたが、構っていられない。私は客を無視して、お台場方面を目指した。
 車を走らせながらも、私はテレビの方が気になった。番組は特に何事もなく進行していく。何かあるとしたら、番組終了後か。
 信号待ちをしている間に、私は新聞のテレビ欄をチェックした。今、紗彩が出ている番組は、夕方五時に終わる。あと二十分。渋滞などに巻き込まれなければ、何とか間に合う時間だ。
 私はこのときほど都内の交通事情が疎ましいと思ったことはなかった。思ったように車が進まない。いつもなら何とも思わない赤信号の多さや心ないドライバーの無謀運転に対し、無性に苛立つ。
 それでも我慢して、レインボー・ブリッジまで辿り着くと、そこからはスムーズだった。車が気持ちいいほどに流れていく。だが、それで私の焦りが払拭されたわけではなかった。
 車窓からテレビ局が見えてくると、私は紗彩の無事を祈った。番組はもうすぐ終了に近い。
 テレビ局へ到着したのは、夕方五時の時報が鳴り、ニュース番組が始まったときだ。しかし、イベント会場はここから少し離れたところにあるお台場野外特設会場である。私はなおも車を走らせた。
 イベント会場が見えたところで、私は急ブレーキ気味に車を止め、運転席から降りた。近くにはテレビ局のロケバスが停まっている。紗彩はこれで移動するのだろう。私は首を伸ばすようにして、紗彩を探した。
「芥川さん」
 不意に名前を呼ばれ、私は振り返った。名を呼んだ男性を見て、私は愕然とする。それは六本木で紗彩と会っていた男だった。
「芥川さん、ですよね?」
 男は念を押すように尋ねてきた。私は思わず固唾を呑む。どうして、私の名前を知っているのか。
「あ、あなたは……」
「申し遅れました。私は苅屋と申します。初めまして」
 そう言って、苅屋と名乗る男は懐から名刺を取りだし、私に差し出してきた。
 私が苅屋の名刺をおずおずと受け取ろうとした途端、驚いたような声がそれを妨げた。
「苅屋さん?」
 それは紗彩だった。仕事が終わり、スタッフたちと共に、ロケバスでテレビ局へ帰ろうとしているところだったのだろう。こんなところで苅屋を見つけ、紗彩はびっくりしたような顔をしていた。
 だが、私はさらに目を見開いた。紗彩のすぐ後ろから、あのストーカーが走って来るのを見たからだ。
「危ない!」
 私はとっさに叫んだ。しかし、短い一言では誰に発した警告か分からない。
「キャッ!」
 走ってきたストーカーは、紗彩を背後から抱きすくめるようにした。周囲にいたスタッフたちが、一瞬、何事かと棒立ちになる。
 それも刹那、突然、現れた暴漢にスタッフたちも黙っていなかった。若いスタッフの一人が、ストーカーを取り押さえようとする。
 ところが、ストーカーも用意周到だった。右手に持っていた何かを、かかってきたスタッフに接触させる。すると、そのスタッフは短い悲鳴と奇妙な痙攣のような状態になり、その場に倒れてしまった。
 私は最初、ナイフかと思った。しかし、改めてストーカーの手にある物を見て、それが別の物であると悟る。その凶器の先端が、バチッと火花を散らしたのだ。
「近づくな! 近づくと、コイツのようになるぞ!」
 ストーカーが持っていた物はスタンガンだった。これを喰らったら、どんな人間でもただでは済まない。他のスタッフもスタンガンの威力を目の当たりにし、たたらを踏んだ。
 紗彩はストーカーの手を振り払って、逃げようとした。だが、顔の近くにスタンガンを向けられ、抵抗が弱々しくなる。
「離して……お願い……」
 紗彩は震えていた。顔面も蒼白である。
 そんな紗彩に、ストーカーは不気味な笑顔を見せた。
「怖がらないでいいよ……ボクの言うとおりにしてくれたら、紗彩ちゃんを傷つけたりしないから」
 ストーカーはそう言って紗彩を安心させようとしたが、この状況でそれを受け入れろと言うのは無理な話だ。
 スタッフたちは何とか紗彩を助けようとはしながらも、スタンガンのせいでストーカーににじり寄れないでいた。遠巻きにしながら、隙を窺う。
 苅屋はストーカーの背後から、そっと近づこうと試みた。しかし、警戒心の強いストーカーは、せわしなく周囲を見回す。近づこうとしていた苅屋にも、すぐに気がついた。
「みんな、どっか行け! ボクは紗彩ちゃんと二人きりになりたいんだ!」
 ストーカーは金切り声で叫んだ。どうやら犯行は衝動的なものらしい。でなければ、脱出経路など確保しているはずだ。
 一方で、衝動的な犯行だとすれば、何をしでかすか分からないということでもある。このまま追いつめられたら、紗彩の身が、益々、危険にさらされてしまう。
「待ちなさい!」
 私は思いきって声を上げた。ストーカーはもちろん、スタッフたちも私の方を向く。
 そのとき、私が考えていたのは、どうにかして紗彩を助けるということだけだった。
 私はそれを固く決意し、そして言った。
「ここから逃走するつもりなら、私のタクシーを使いなさい!」


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