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私の言葉に、その場にいた全員が固まった。
ただのタクシー運転手に過ぎない私は、この中でもたまたま居合わせた人物としか見られなかっただろう。そのタクシー運転手がいきなり口を挟んだのだ。他の者たちが驚くのは当然と言えた。
「あ、芥川さん!」
血相を変えたのは、あの苅屋という男だった。この男、私のことをすべて知っているのかもしれない。
だが、今、考えなければならないのは、紗彩の無事だ。私はストーカーに、重ねて迫った。
「さあ、乗るなら早く!」
私はストーカーの答えを待たず、車に乗り込んだ。そして、後部座席のドアを開ける。
これでいよいよストーカーも決断したようだ。ストーカーは先に紗彩を押し込むようにすると、自分も車内の乗り込んできた。私は二人が座席に落ち着く間もなく、車を急発進させる。
「高宮ぁ!」
スタッフたちが車に追いすがってきたが、私はスピードを上げて、それを振り切った。一路、レインボー・ブリッジを目指す。
ストーカーはまんまと逃げることに成功し、満足しているようだった。そして、隣の紗彩にいやらしく微笑みかける。
「紗彩ちゃん、やっと二人だけになれたね。もう何も心配することはないよ」
ストーカーはそう言うと、左手で紗彩の顔に触れようとした。
紗彩はそれを拒絶し、短い悲鳴を上げた。全身を丸めるようにして、子供のように震える。
そんな紗彩の様子がストーカーの嗜虐性をあおったようだ。ストーカーは紗彩に抱きつくような格好で、その髪に鼻を近づける。
「ああ、何ていい匂いなんだ……これが紗彩ちゃんの匂いなんだね」
「いやぁ!」
紗彩はすっかり怯え、泣いていた。だが、車中に逃げ場はない。ストーカーの左手が執拗に紗彩の身体をまさぐった。
「紗彩ちゃんのすべてはボクのものだ! ああ、紗彩ちゃん!」
ストーカーは紗彩にキスを迫った。さすがの紗彩も、それはさせじと、顔を背ける。
しかし、ストーカーは紗彩のうなじに舌を這わせた。紗彩の表情が嫌悪に歪む。手でストーカーの顔を押し返そうとした。
「そんなに恥ずかしがることはないじゃないか」
ストーカーは猫なで声を出したが、右手ではスタンガンをスパークさせ、紗彩を脅した。紗彩の目が恐怖に見開かれ、抵抗を緩める。ストーカーはゆっくりと唇を近づけた。
私はバック・ミラーで欲情するストーカーの行為を見ながら、怒りのあまり、歯ぎしりした。私の紗彩がこんなヤツに穢されるなんて。私はクラクションを派手に鳴らした。
「うるさいぞ! 黙って運転しろ!」
ストーカーはいいところを邪魔されて、私に怒鳴りつけてきた。だが、私はクラクションを鳴らすのをやめない。ストーカーは苛立ちを募らせた。
「やめろって言ってんだ! これを喰らいたいのか!?」
ストーカーは私の顔の横にスタンガンを突き出してきた。バチバチと火花が散る。しかし、私はひるまなかった。いや、内心は冷や汗ものだったが、それを表には出さないよう努める。
「やれるものならやってみなさい! アンタも無事じゃ済まないよ!」
車はすでにレインボー・ブリッジを渡り始めていた。私はアクセルを踏み込んでいく。こんなにスピードを出している状態で、運転手である私が気絶したら、車は制御を失う。そうすれば他の車に衝突するか、橋に激突するのは必至だ。
「こ、こいつ……!」
ストーカーは私を睨みつけながら、なおもスタンガンを近づけてきた。脅しだ。
「イヤッ……やめて……」
紗彩は泣きながら、弱々しく懇願した。
私は無言の抵抗とばかりに、さらにアクセルを踏んだ。制限時速を超える。前を行く他車を追い越した。
「このぉ!」
ストーカーは私の首へ手を伸ばしてきた。力ずくで言うことを聞かせるつもりらしい。後部座席から立ち上がった。私が待っていたのは、この瞬間だ。
「紗彩! 頭を伏せて!」
私は大声で指示した。それと同時に、目一杯、ブレーキをかけた。
キキキキキキキキィ!
悲鳴のようなブレーキ音が長く尾を引いた。中腰だったストーカーの身体が運転席の方へ飛ぶように倒れ込んでくる。その拍子に、ストーカーの手からスタンガンが飛んだ。
今だ!
私はストーカーの腕を全身で抱え込むようにして、覆い被さった。ストーカーの動きを封じ込む。
「離せ! 離しやがれ!」
ストーカーはジタバタともがいた。だが、私は死んでも離さないつもりで、全体重をかけるようにして押さえ込んだ。
「紗彩、逃げて!」
私は叫んだ。その途端、ストーカーの後頭部が私の眉間を痛打し、一瞬、力が抜けそうになる。ここでストーカーを離したらおしまいだ。私は慌てて、もう一度、押さえ込みにかかった。
「紗彩、早く!」
私もストーカーも必死だった。いつまでこうしていられるか。とりあえず紗彩にはなるべく遠くへ逃げて欲しいと願う。
恐慌を来していた紗彩は、ドアを開けるのに少し手間取ったようだが、何とか脱出できたようだった。ヒールが脱げるのも構わず、車外へと飛び出す。
そこへ追いかけてきたロケバスが到着した。紗彩が降りてきたスタッフの胸に飛び込むように抱きつく。そして、一緒にロケバスに乗ってきた苅屋が、車の後部座席からストーカーを引きずり出した。
「この野郎!」
苅屋は右手でストーカーの襟元をつかみ、そのまま道路に押し倒した。ストーカーは情けない声を出して抵抗するが、苅屋からは逃れられない。そうしている間に、別のスタッフが私の足下に転がっていたスタンガンを拾い、ストーカーの目の前に突き出した。ようやくストーカーも観念する。
私は痛む顔を押さえながら、車を降りた。紗彩の無事な姿を見て、その場にへたり込みそうになる。
やがて、スタッフが通報したらしく、パトカーがこちらへ向かっているのが見えた。
「大丈夫ですか、芥川さん?」
ストーカーを駆けつけた警官に引き渡すと、苅屋が私に声をかけてきた。私は痛みを堪えながらうなずいて見せる。苅屋はやっとホッとしたように笑った。
「良かった。あなたにも高宮さんにも大したケガがなくて」
「あなたは?」
ストーカーの出現で中断された自己紹介を私は促した。苅屋が再び名刺を差し出す。
「探偵の苅屋です。高宮さんに依頼され、あなたを捜していました」
「私を……」
紗彩の方へ視線を向けると、彼女も私の方を見ていた。内から込み上げてくる感慨を抑え込むかのように。
苅屋は遠い昔を語るかのように喋り始めた。
「今から二十三年前。あなたと当時の同棲相手の間に、一人の女の子が産まれた。だが、あなたの同棲相手は、事あるごとに娘さんを虐待。見るに見かねたあなたは、娘さんを守るため、とうとう、その同棲相手を殺害してしまった。そうですね?」
「………」
「刑務所で罪を償ったあなただが、娘さんの元には帰らなかった。親が殺人犯であると苦しめたくなかったからだ。その後、あなたは名前を変え、各地を転々とし、三年前から東京でタクシー運転手となった。そんな中、あなたは知ったはずだ。あなたの娘さん──つまり、高宮紗彩さんがテレビ局の女子アナウンサーになったことを」
私は苅屋の話を聞きながらも紗彩の方ばかり見ていた。紗彩は私をジッと凝視し、ふらふらとこちらへと近づいてくる。
「高宮さんはあなたを捜していたんですよ。高宮さんが女子アナウンサーになったのも、テレビに出ていたら、いつかあなたに気づいてもらえるかも知れないと思ったからです。殺人犯でもいい。もう一度、あなたに会いたいと……」
「紗彩……」
私は熱い涙がこぼれるのを感じた。あとからあとから溢れ出て、止めどなかった。こんなに涙を流したのは何年ぶりだろう。涙で、愛する紗彩の顔が滲んだ。
「もういいじゃないですか。娘さんに名乗り出てやってください」
苅屋の言葉はあくまでも優しかった。
「お母さん!」
紗彩は私をそう呼んで、抱きついてきた。二十数年ぶりの母娘の抱擁。望みつつ、叶えられないと思っていた夢。しかし、それは今、現実となった。
「紗彩……ごめんよ……ごめんよ……」
「お母さん……」
私たちは抱き合いながら、いつまでもいつまでも泣いていた。