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死 に 髪

−3−

「なあんだ、デートだったんだ」
 私は初めて知ったような素振りをして、屈託なく笑った。しかし、その間も私の腕は広務さんを離さない。姉はそんな私を冷然と見つめていた。
 姉はそのとき悟ったはずだ。私が二人のデートにくっついて来たのを──いや、邪魔しに来たのを。
「ねえ、この間の約束、憶えてる?」
 私は広務さんに尋ねた。広務さんは、一瞬、考える。
「二人のこと、お父さんたちに黙っていたら、何かおごってくれるって言ったじゃない」
 私は広務さんの腕を取って、甘えるように左右に振りながら唇を尖らせた。広務さんは約束を思い出したらしく、苦笑する。
「そう言えば、そうだったね」
 困った様子の広務さんを見てたまりかねたのか、姉がようやく動いた。
「梢。次の日、あなたの好きなケーキをおみやげに買ってってあげたじゃない? あのとき、口止め料って念を押したはずよ」
 確かに、姉にはケーキをもらっていた。しかし、
「あれはお姉ちゃんの分よ。まだ、広務さんの分が残っているわ」
 と、私は反論した。厄介払いしたい姉の魂胆など、最初からお見通しだ。
「──ねえ、いいでしょう、広務さぁん」
 私は媚びた眼差しで、広務さんに甘えた。広務さんは仕方ないという風にうなずく。
「しょうがない、約束しちゃったもんなあ」
 広務さんが承諾したことによって、姉は何も言えなくなってしまった。私は嬉しそうにはしゃいで見せる。
「でも、まだ昼飯には早いし。──実は、これから映美と映画を観る約束をしていたんだ」
「じゃあ、私も一緒に行く。その後、ご飯おごってもらえばいいでしょ?」
 こうして私は強引に二人のデートに付いていくことにした。
 映画はテレビのCMでも宣伝していない、地味そうなイタリア映画だった。いわゆる短館系というヤツで、東京ではここ銀座でしかやってないらしい。
 私と姉が広務さんを挟む格好で座ると、映画は始まった。案の定、観ていて十分もしないうちに眠たくなってくる。だが、ここで居眠りをするわけにはいかなかった。
 私は館内が暗いことをいいことに、広務さんの左手を握った。広務さんはちょっと驚いた様子だったが、拒みもせずに握らせてくれる。姉は気づかない。いや、気づかない振りをして、必死に映画に集中しようとしているのか。
 私はさらに大胆な行動へ出た。広務さんにしなだれかかるようにして、その腕にしがみついたのだ。これにはさすがの姉もこちらを見咎め、広務さんも狼狽する。それでも構わず、私は寝た振りをした。
 姉は私が退屈して寝たと思ったのだろう。しばらくしてから薄目を開けて様子を窺うと、再びスクリーンの方に向き直っているのが見えた。広務さんも私を引き剥がそうとはせず、そのまま腕を貸してくれた。
 だが、きっと広務さんは映画に集中できなかったはずだ。なぜなら広務さんの腕には、私のノーブラの胸が押しつけられていたからである。
 広務さんと姉の関係ががどこまで行っているのか知らないが──奥手な姉と真面目そうな広務さんのことだから、ひょっとすると最後の一線をまだ越えていないかも──、露出度の高い女子高生に密着されて、興奮しない男はいないはずだ。実際、さりげなく手首に触れると、明らかに脈拍が早まっているのが分かった。
 私も男性経験は皆無だった。キスをしたことはあるが、それ以上は許したことがない。別に姉のようにもてなかったわけでも、貞操観念が固いわけでもなく、性欲の捌け口として女を求めてくる男たちに幻滅しているだけだ。いくら甘い言葉を囁こうとも、結局、目的はセックスである。私はそれを本能的に感じていた。もちろん、私もセックスに興味がないわけではないが、カラダ目当てのろくでもない男たちに処女を捧げるのは真っ平ご免だった。
 でも、広務さんはこれまでの男性とは違った。まだ若いのに大人として成熟し、男としての魅力にあふれている。こんな男の人との出会いを私はずっと待ち望んでいたのだ。
 だが、そんな広務さんが、よりによって私の大嫌いな姉の彼氏とは。しかも、広務さんは本当に姉を愛している。悔しいが、それは認めなくてはならなかった。
 私は嫉妬した。広務さんをこちらに振り向かせたかった。広務さんを私だけのものにしたかった。
 映画を見終わり、昼食をおごってもらっても、私は二人のデートに同行した。広務さんは甘える私を無碍に追い帰すこともできず、そのまま状況に流されてしまう。姉も自分から帰れと言えない性分だ。
 午後はこれまた私にとっては退屈な画廊巡りだった。その予定を聞かされたとき、私は露骨にイヤな顔をしたと思う。
「画廊?」
 私にとってのイメージである画廊巡りは、爺臭い趣味というものだった。映画ならまだしも、動かない絵をジッと眺めて、何が楽しいのか。
「広務さんは絵を描くのよ」
 画廊への道すがら、姉が教えてくれた。すると広務さんははにかんだような顔になる。
「素人画だけどね。別に専門的なところで学んだわけでもないから」
 と、広務さんは謙遜した。
「へえ、どんな絵を描くんですか?」
 私はさも興味がありそうに装いながら尋ねた。
 すると、またしても答えたのは姉の方だった。
「人物画、よね? 私も何度かモデルになったことあるから」
 広務さんが姉の絵を。私は幸せそうに語る姉が憎らしかった。
「お姉ちゃんがモデルって──ひょっとして、ヌード?」
 私は姉への嫌悪が表に出ないよう振り払おうとして、わざと言ってみた。広務さんが笑う。姉は顔を赤らめた。
「バカ。そんなことあるわけないでしょ」
「残念ながら、ヌードじゃないよ。でも、今度、お願いしてみようかな」
「もう、広務さんまで!」
 広務さんの冗談に、姉は叩いた。男の人とこんな風に会話している姉を初めて見る。
「広務さん、私ならヌードOKだよ」
「梢ったら!」
「ハハハ……」
 すれ違う人たちが私たちを見たら、どんな三人組に見えただろう。
「──でも、まだ完成してないんでしょ、あの絵? もっとも完成するまではダメだって、私も見せてもらってないけど」
 思い出したように、姉が広務さんに尋ねた。広務さんは気まずそうになる。
「うん。最近は特に仕事で筆を握る時間もないし……。でも、もう三年か」
「三年? 三年も描いていて完成していないの?」
 私は思わず言ってしまった。
「映美には申し訳ないけど、僕は筆が遅い方でね。自分でモデルになってくれって頼んだんだけど、なかなか完成まで行かなくて」
「ふーん。じゃあ、それが二人のなれそめなんだ」
「そういうことになるかな」
 広務さんは姉と視線を通わせると微笑んだ。
 銀座にはたくさんの画廊がある。それを次々に移動するだけでも疲れた。
 大体、私には観ていても、ただつまらないだけの代物だ。時間ばかりが長く感じられた。
 映画館のときのように腕を絡めて誘惑しても、広務さんは完全に絵の方へ注目していた。自分で描くだけあって、余程、絵が好きなのに違いない。
 私は諦めて、画廊にある椅子に腰掛けた。そして、広務さんの背中を眺める。
 広務さんの隣には姉が並んでいた。姉は私と違って、ジッと絵を鑑賞している。姉なら広務さんと一緒にいつまでも絵を眺めていられるだろう。姉はそういう人だ。広務さんが姉を気に入ったのも、その辺かも知れない。
 広務さんが隣にいる姉の髪をそっとなぜた。長く艶やかなストレートの髪。シャンプーのCMに出演できそうなくらい美しい髪だ。私は母親似で髪にクセがあり、長くは伸ばさずショートにしているが、これだけはあこがれても手に入らないものだった。
 広務さんは愛おしむように、いつまでもいつまでも姉の髪を撫で続けていた。



 姉の葬儀の日、私は広務さんの目の前に、束ねた姉の髪を置いた。広務さんは震える手で、その髪に触れる。
「映美……」
 広務さんは大粒の涙をこぼした。そして、姉の髪を胸に抱くようにする。
 姉は死んだ。残ったのは、あの長く美しかった黒髪だけ。私は両親に止められて見ていないが、姉の肉体は無惨な形になっているという。
 私は泣きじゃくる広務さんを優しく抱いた。
「私が……私がお姉ちゃんの代わりになるから」
 だが、今の広務さんに何を言ってもムダだった。
「映美……どうして死んでしまったんだ……!」
 姉の死は、未だに自殺なのか事故なのか分からなかった。
 自分から線路に落ちたという目撃証言が多いのだが、中には姉の背中を押した何者かの手を見たという人もいて、警察の捜査が今も続いている。
 第一、広務さんとの結婚を間近に控えた姉に自殺する理由などない──というのが大方の見方だった。
 しかし、私は自殺の可能性の方が高いと、今でも思っている。
 姉は苦しんでいた。私に広務さんを奪われようとして。
 画廊巡りが終わってから、私は帰ろうとする広務さんをカラオケに誘った。せっかくのチャンスをこのまま終わらせたくなかったからだ。
 広務さんは迷いながらも、一日、付き合わせた私に悪いと思ったのか、姉と一緒にカラオケボックスへ行ってくれた。
 こういうところへ二人ともあまり訪れたことはないらしく、もっぱら一人でカラオケを歌ったが、広務さんは私に合わせて、手拍子を打ってくれた。一方、賑やかなことが苦手な姉は、まるで頭痛でも覚えたかのように鬱屈した様子だったが、私は自らテンションを上げて、歌いまくった。それこそ、ソファの上に立ち上がり、広務さんにミニスカートから覗く下着を見せつけるようにして、熱唱した。
 目のやり場に困ったような広務さんを見て、姉はトイレだと言って、部屋から出て行った。私はそれを待ちかねたように、曲の途中であったにも関わらず、広務さんに抱きつく。
「こ、梢ちゃん……!」
 抱きつかれた広務さんは、突然のことにどうしたらいいか分からないようで、ドギマギしていた。私は恋人の妹。真面目な広務さんが、私をちゃんとした異性として意識してくれているかは、甚だ疑問だった。だが、こうして息がかかりそうなくらい顔を近づければ、否が応にも広務さんの性的興奮を呼び覚ます。
「広務さん……好き。キスして……」
 私は目を閉じた。
「なっ、何を言っているんだ、梢ちゃん! ぼ、僕は──」
「お姉ちゃんには内緒にするから。ね?」
「………」
 広務さんの答えを待たずして、私は唇を重ねた。私は広務さんに抱きつき、口蓋へ舌を這わせる。次第に興奮してきた広務さんも、私に応じて舌を絡めてきた。
 長い長い情熱的なキスだった。多分、広務さんも映画館から私のことを意識していたのだろう。私が広務さんの手を胸に導くと、ためらいもなく揉みしだいてきた。
「はあっ……広務さん……広務さん……んぐっ!」
 二人の息づかいが荒くなった。私の手からマイクが床に落ちて、スピーカーに大きな音が響く。
 私は広務さんとキスをしながら、部屋のドアに視線を向けた。
 ドアには細長い窓がついており、そこから顔を半分だけ覗かせた姉が廊下に立っているのが見えた。そのときの姉の口惜しそうな引きつった顔。
 勝った。そのとき、広務さんは私のものになったと思った。


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