だが、姉は死んでしまった。
広務さんの心に、その存在を深く刻み込んで。
両親や私と共に、火葬場から戻った広務さんは、長い間、姉の遺影の前に座っていた。手には姉の遺髪を握ったまま、魂の抜け殻のようになっている。夕方になっても、夜になっても、広務さんは姉の前から離れなかった。
「広務さん、もう遅いから帰った方が……」
私はためらうように声をかけた。もう夜の九時を回っている。その間、食事のときも呼んでみたのだが、広務さんは動かなかった。肩を揺さぶっても、反応はない。
「広務さん」
私はもう少し強く、広務さんを揺すった。広務さんの首が大きく傾ぐ。それでも広務さんは心ここにあらずといった様子だった。
母がタクシーを呼び、私と父が二人がかりでタクシーに乗せても、広務さんの様子はまったく変わらなかった。これでは送り届けても、自分のアパートまで帰れるかどうか。結局、私が一緒に乗っていくことにした。
タクシーの運転手も手伝ってくれて、何とか私は広務さんをアパートまで運ぶことが出来た。運転手に礼を言い、転がり込むようにして広務さんの部屋に入る。
広務さんは2DKの小綺麗な部屋に住んでいた。私も中へ入るのは初めてである。カラオケボックスでキスをしてから、私はさらに積極的にアタックし、アパートまで押し掛けたこともあったのだが、やはり広務さんは姉への引け目を感じてか、絶対に中へは入れてくれなかった。
まさか、こういう形で広務さんの部屋に来ることになろうとは。
しかし、姉は何度もこの部屋を訪れていたのだ。そして、広務さんと二人きりになって……。すでにこの世からいなくなった人間に対し、私は嫉妬を覚えずにはいられなかった。
「広務さん、もう休んだ方がいいわ。ベッドで横になって」
私はベッドのところまで広務さんを連れていくと、水を一杯でも飲ませようとキッチンへ行った。冷蔵庫を覗くと、ミネラル・ウォーターのペットボトルがある。私はミネラル・ウォーターを手近なグラスに注ぎ、広務さんのところへ運んだ。
ベッドでは広務さんが背を丸めるようにして座っていた。姉の遺髪を手にし、ジッとそれを眺めているようだ。すっかり憔悴している様子は、私も見ていてつらかった。私はわざとカラ元気を出す。
「はい、お水。明日から仕事なんでしょ? これを飲んで、早く寝た方がいいわ」
私はそう言って、グラスを差し出した。だが、広務さんは相変わらず無反応だ。私は仕方なく、近くにあるパソコン机の上にグラスを置いた。
所在なげに辺りを見回すと、部屋の隅に白い布がかけられたイーゼルを見つけた。おそらく、広務さんが描いた姉の絵に違いない。私は興味を持って、イーゼルに近づいた。
姉も完成するまではと、広務さんに見せてもらっていない絵だ。果たして、どんな絵なのか。まだ、完成していないと言うが、おおよその形にはなっているだろう。
しばらく触れていないのか、イーゼルにかけられた布は埃っぽい。私は布を取ろうと、手を伸ばしかけた。
「──っ!」
突然、反対の手首を強く握られ、私は危うく悲鳴を上げそうになった。振り返ると、そこには今まで見たこともないくらい怖い顔をした広務さんが立っていた。
「ひ、広務さん……」
「それには触らないでくれ」
「ご、ごめんなさい」
私が謝罪すると、広務さんの手がスッと離れた。そして、またフラフラとした足取りでベッドへ戻ろうとする。私はその背にしがみついた。
「今夜……泊まってっちゃダメ?」
私は囁くようにそっと声を出して、広務さんに尋ねた。そのとき、広務さんの体が強張ったのを肌で感じる。
「ダメだよ……ご両親が心配する……」
「でも、このまま広務さんを一人にして帰れないよ」
「………」
「私がそばにいてあげる。広務さんが元気になるまで、私がずっと居てあげるから」
「……ありがとう、梢ちゃん。でも、僕は大丈夫だから。心配しないで」
「ウソ。ウソよ。広務さんは強がっているんだわ。お姉ちゃんを亡くして、平気なわけないじゃない」
「………」
「広務さん……私がお姉ちゃんの代わりになってあげるよ」
「──!」
広務さんは弾けるように私から離れ、強張った表情で振り返った。
私は潤んだ瞳で広務さんを見つめ返し、ノースリーブ・シャツのボタンを外していく。
広務さんの喉が動いた。
「こ、梢ちゃん、何を?」
「広務さん……私を抱いて……そして、お姉ちゃんを忘れて」
「なっ……! 何をバカなことを! そんなことできるわけ──」
「好き! 広務さんが好き! 初めて逢ったときから、ずっと! でも、広務さんはお姉ちゃんの恋人だった。その後、婚約もして、諦めなくちゃいけないんだと思ってた。でも! この気持ちを抑えることなんて出来ない! お姉ちゃんがいなくなった今、私が広務さんを──」
「やめろ! やめてくれ! 映美が死んだばかりなのに、そんな話は聞きたくない!」
広務さんは私の身体から目を逸らし、叫ぶように言った。その言葉に、私は立ちすくむ。
「広務さん……」
涙がこぼれてきた。嘘泣きではない。本物の涙だ。
広務さんは目をつむり、唇を固く結んでいた。握った拳が震えている。
「映美は僕のすべてだった……何ものにも代え難い存在だった……それなのに、妹であるはずのキミが、映美のことを忘れろだなんて……」
「………」
「帰ってくれないか……僕のことなら心配いらないから……」
私は脱ぎかけていた服を着た。そして、広務さんに挨拶もせず、部屋を出ていく。
外へ出た私は走りながら泣いた。愛する人に拒絶され、深く傷つきながら。
二年後──
私は久しぶりに姉の墓を訪れた。来るのは納骨したとき以来だ。
今日は姉の三回忌である。墓地のある寺には身内だけがひっそりと集まっていた。
昨年、行われた一周忌に、私は参列しなかった。実は、あれからすぐカナダへ留学したのである。
突然のカナダ留学を決めたのは、失恋の痛手を癒す目的もあった。
姉の死によって、その存在はより強く広務さんの中に刻まれてしまった。想い出は時間と共に美化されていき、とてもではないが私が付け入るような隙はない。広務さんが私のことを姉の妹としか見てくれない限り、それ以上の進展を望むのは難しかった。
だから私はカナダへ旅立った。
後日、私の留学を知った広務さんから手紙が届いた。カナダへ行ったのは自分のせいだと思ったのだろう、私の想いを受け止めることが出来なかった詫び状である。それには広務さんの苦しい胸の内と悲しみが綴られていた。
その手紙に対し、私はあえて返事を出さなかった。姉を亡くしたてで心配する両親にも、極力、近況を知らせず、約二年間の留学が終わるまで──それこそ昨年の一周忌のときすら、日本には帰らなかった。
だから、ここへ来るのは二年ぶりだった。
三回忌の法要が始まる前に、私は姉の墓へ行ってみようと思った。別に、姉に帰国の挨拶しておこうという殊勝な心がけではない。他の目的があったからだ。
私の思惑は当たった。線香の煙がたゆたう姉の墓の前で、しゃがみ込み、手を合わせている男性がいる。姉の婚約者だった広務さんだ。
あの広務さんが姉の命日を忘れるはずがないと思っていた。そして、姉への想いは今も変わらないだろう。広務さんはそういう人だ。
私は広務さんに近づいた。
広務さんは墓前に手を合わせたまま目をつむっているので、私にはまったく気づかない。私も足音を忍ばせ、広務さんが自然にこちらを向くまで待った。
じりじりと焼けつくような日射しと息苦しささえ感じる蒸し暑さ。二年前の夏を思い出す。
ようやく広務さんが目を開け、立ち上がった。そして、こちらを振り返る。
私はいたずらっぽく微笑んだ。
そのとき、広務さんの目が大きく見開かれる。驚きに満ちた目だ。
「映美……」
広務さんは私を姉の名で呼んだ。
私は笑いかけた。少し残念そうな表情で。
「ひどいわ、広務さん。私のこと、忘れちゃったの?」
そうは言いながらも、私は内心、手を叩きたくなった。
広務さんは、まだ幻でも見ているようだ。こめかみの辺りから汗が伝う。
「梢ちゃん……なのか?」
口が粘つくような感じで、ようやく広務さんは私の名前を呼んでくれた。
私は上目遣いで広務さんを見た。
「ただいま、広務さん。どう? 少しは大人っぽくなった?」
「いや……ああ……」
広務さんの答えは要領を得なかった。無理もないだろう。私は短かった髪を長く伸ばし、まるで姉の生き写しのようになって広務さんの前に現れたのだから。
姉が今の私を見たら、どう思うだろうか。
私は広務さんの気持ちが、墓の下にいる姉からこちらへ傾くのを感じて、この二年間、待ちに待っていた愉悦に浸っていた。