それからさらに一年後、私と広務さん──いや、もう広務と呼ぶべきだろう──は結婚した。
私の両親を含め、周囲の反応は様々だったが、私たちの愛は急速に深まったのである。もはや、私たちは互いから離れることは出来なかった。
時折、広務は私の中に、死んだ姉を見ているような感じを受けたが、私はそれでも構わなかった。実際、広務の想い出にある姉を利用したのは私の方だ。姉のように髪を伸ばし、その仕種まで似せて。だが、これから時間はたっぷりとある。いつか、姉よりも私の方が長く一緒に過ごしたとき、広務はちゃんと私を私として見てくれるようになるはずだ。
結婚した私は、広務のアパートで一緒に暮らすことになった。いずれはもっと広いところへ引っ越す予定だが、広務も仕事の方が忙しく、式を挙げるだけで精一杯だったのである。だが、私は広務と一緒にいられるなら、どこでも良かった。
今、広務は仕事に行っている。バリ島への新婚旅行より帰ってきてから、仕事が山積みになっていたようで、毎日、忙しそうだ。新婚なんだから、広務の上司ももう少し気を遣ってくれればいいのだが、勤め先の会計事務所はそんなに大きな所ではないので、そうもいかないのだと言う。
私は洗濯物を干し終えると、部屋の掃除に取りかかった。掃除機を使えば、五分とかからない作業だ。昔の私からは想像も出来ない姿だろう。姉と違って、私は家事の手伝いなどしたことがなかった。それが今は苦手な料理までこなすようになっている。それもこれも、二年間の留学で一人暮らしをした経験と、愛するひとへの献身がさせていることだ。
「ふぅ」
一通り掃除機をかけ終え、私は息をついた。ふと何気なく、視線が部屋の隅で止まる。
三年前と同じく、埃をかぶった白い布で覆われたイーゼル。部屋はあのときと何も変わっていない。
広務からは、くれぐれも触らないよう言われている。私も言われたとおり、努めて気にしないようにしてきた。だが、片づけられないままのイーゼルは、今も二人の生活の場に置かれたまま。まるで私たちを見張っているような気がした。
私は掃除機をその場に置くと、イーゼルに近づいた。広務が描いた姉の絵。どんな絵だろうか。そして、なぜこんなにも長く放置してあるのだろうか。今まで抑えてきた好奇心が頭をもたげてきた。
広務に気づかれたらどうしよう。叱られるだろうか。
しかし、そんなことが頭によぎったのも一瞬、私は布に手を伸ばしていた。
引きずるように布を剥ぐと、縦置きにされたキャンバスが現れた。それは真っ白ではなく、色が重ねられていたので、私は完成していたのかと疑う。だが、よく見ると、それは違った。
椅子に腰掛けた女性の絵だった。私は絵のことなど分からないが、予想していたものよりもオーソドックスな絵だ。
ただ、広務が言っていたように未完成らしく、顔は描き込まれていなかった。のっぺらぼうの顔がこちらを向いている。
それは確かに姉なのだろう。長い黒髪は、今の私と同じくらいに伸びている。
それにしても、背景が灰色に塗りたくられているせいか、とても暗く不気味な絵に見えた。あの広務が描いたとは思えない。それとも広務の裡には、こんなどす黒いものが渦巻いているのだろうか。あるいは別の何かが操るように描かせたものか。
ジッと絵を見ているうちに、私は姉に見つめられている気分になってきた。のっぺらぼうのはずなのに、姉の表情が段々と浮かんできたような気がする。
それは私と広務が一緒のときに見せていた嫉妬に満ちた顔。私の馴れ馴れしい態度に腹を立てているなら、一言でも何か言えばいいものを、ただ黙って、口惜しそうに見つめる目。
姉は私を殺したいと思っていただろう。
私も姉なんか消えてしまえばいいと思っていた。
願いを叶えたのは私だ。広務を自分のものにしたのも私だ。
昔から私は姉のものを取り上げてきた。姉の大切なものを。
だが、姉はそれらを自分で守るということをしてこなかった。何でも私や他の人に譲ってくれる。乞われるがままに、あっさりと。それは放棄と同じだ。手放したものを私がもらって何が悪い。それを恨むというなら、筋違いである。悪いのは姉だ。大切なものを大事にしてこなかった姉の責任だ。
「そうやって私を見ないでよ、お姉ちゃん」
私は知らず知らずのうちに、絵の中の姉に話しかけていた。
姉は相変わらず何も言わない。ただ、私を見つめるだけ。
私はその視線に耐えきれなくなり、キャンバスに布をかぶせた。
その夜、私は夢を見た。
高校の制服を着ている。髪も昔のように短くなっていた。場所はここ、広務のアパートだ。
私は広務に会いに来たのだ。私は広務と出会ったばかりのときのように心をときめかせながら、チャイムも押さずにドアを開けた。昔だったら、そんなに簡単にはいかなかったが、夢だから都合良く進んでいく。
広務は奥の部屋にいた。私が来たのに気づき、優しく微笑んでくれる。しかし、広務はすぐにイーゼルのキャンバスに向き直ると、絵を描くことに集中し始めた。
そのとき、私は背筋がゾッとした。私に背を向ける格好で、髪の長い女性が座っている。
広務の絵のモデルだ。それはつまり姉。広務はモデルの姉に、時折、笑いかけながら、熱心に絵筆を走らせていた。
死んだはずの姉がこんなところで何をしているのか。私は憤った。勝手に入って来ないでよ。ここはもう広務と私の部屋なんだから。
私は後ろから姉の肩を揺すった。──早く出てって。出てってたら。
しかし、姉は頑として動かない。椅子に座ったまま、モデルを続けている。
私は相当な力で姉を揺さぶったはずだが、夢の中であるせいか、姉は身じろぎ一つしなかった。私を無視する姉に対し、無性に腹が立つ。面と向かって言ってやろうと思った。
ところが、私の足は、そこから一歩も動けなかった。まるで金縛りにあったかのようだ。私は必死に動こうとしたが、まったく意のままにならない。私の夢であるはずなのに。
そのとき、私は目にしたものを疑った。姉の髪の毛がどんどん伸びているのだ。
見れば、伸びた髪の毛は私の脚に絡みついていた。これが私の脚を封じているのだ。髪の毛は徐々に這い登り、ルーズソックスから素足へと触れる。
髪の毛が触れる繊細な感触に、私は怖気立った。それは蔦か蛇のように、私をからめとり、さらに上へと伸びる。
私は広務に助けを求めた。──広務! 広務!
だが、広務は姉への微笑を絶やさぬまま、絵を描き続けていた。まるで私など眼中にない。姉と二人きりでいるかのようだ。
──広務、助けて!
私はさらに叫んだ。髪の毛は私の下半身から、上半身へ達しようとしていた。
恐怖に目を閉じようにも、得体の知れない力がそれを許さなかった。とうとう髪の毛は、私の首に巻きつく。
首を絞められた。髪の毛の仕業とは思えない物凄い力。息が出来ない。抵抗も出来ない。声も上げられない。
──助けて、助けて、助けて、助けて、助けて。
姉は私に背を向けたまま。一体、どんな顔をして、私の首を絞めているのか。
──やめてよ、お姉ちゃん。許してよ、お姉ちゃん。
私がいくら懇願しても、髪の毛の力は緩むことがなかった──
「……ずえ……梢!」
広務に揺り動かされ、私は夢から覚めた。
夢と現実の境が分からず、慌てて酸素を求める。首にまとわりついている髪の毛。私はそれを無我夢中で振り払った。
「いやああああああっ!」
「梢! どうした!?」
広務がもう一度、私を揺すった。そこでようやく、あれが夢だったのだと分かり、安堵の吐息をつく。寝汗でパジャマも下着もびっしょりだ。実際に私の首に絡んでいたのは、私自身の髪の毛だった。
「大丈夫かい? 凄くうなされてたけど」
広務は心配そうに私を覗き込みながら言った。私は広務の胸に顔を埋める。
「うん……平気……でも……怖かった……」
私は広務に抱きついたまま、呼吸を整えた。そんな私に広務は優しく髪を撫でてくれる。かつて姉にしていたように。
「怖い夢でも見たの?」
「うん……」
「どんな夢?」
「………」
姉の夢を見たと、広務には言えなかった。広務は今、姉のことを忘れつつある。それを思い出させることは、私のためにもならなかった。
落ち着いた私は、広務から離れ、ベッドから立った。
「喉渇いちゃった。水、飲んで来るね」
私は夢については答えず、キッチンへ行った。
冷蔵庫からミネラル・ウォーターのペットボトルを取り出し、グラスへ注ぐ。並々と注がれ、指にまでこぼれる冷たい水を、私は一気に飲み干そうとした。
「うえっ!」
流し込んだ途端、喉越しに違和感を覚えた私は、思い切り水を吐き出した。シンクに私の吐いた水がこぼれ、排水溝へ流れていく。
そのとき、キッチンの照明をつけていなかったので、ハッキリとは分からなかったが、水と一緒に黒く細長いものが流れていったように見えた。
髪の毛か。
私は先程の悪夢を思い起こしながら、何度も暗いキッチンでえずいた。