それからというもの、私は口に入れるものに対して神経質になっていった。
水ばかりではない。食べ物に関してもだ。
呑み込みそうになった髪の毛は、たまたまコップに付着していただけだと思い込もうとしたのだが、翌朝、茶碗によそったご飯に一本の毛が入っていたのを発見して、一気に食欲を失った。
箸を置いた私を見て、前に座っていた広務が怪訝な顔をする。
「どうした?」
「髪の毛が……」
私は目線で茶碗の髪の毛を示した。
「こんなの、取ればいいじゃないか」
広務はそう言うと、髪の毛をつまみ、つーっと引っ張った。
それは長い髪の毛だった。ご飯から覗いていたのは、ほんの二センチにも満たなかったくせに、なかなか途切れやしない。最終的に三十センチ以上もの長さがあった。
「うっ!」
それを見ていた私は、生理的嫌悪感を覚えた。吐き気がする。私は口を押さえたまま、洗面所へ立った。
洗面台の蛇口を大きくひねり、私は昨夜同様にえずいた。
食べ物に異物が入っていたことは、これまでにも何度かあるが、どうして髪の毛だと、こうも気持ち悪くなるのだろう。まるで虫が混入していたかのようなおぞましさが込み上げ、その食べ物自体が不衛生に感じられる。
そのとき、私は昔を思い出した。家族全員が使うリビングのソファに寝転がったとき、よく姉の長い髪の毛が洋服に付着し、私は気味悪がったものだ。ねっとりとまとわりついた髪の毛を指で引き剥がす瞬間。どうして、あれほど嫌悪したのだろうか。
姉の長く美しい髪は、私が唯一、あこがれても、なかなか得られなかったものだ。いつも天使の輪が輝き、シャンプーの優しい香りが鼻腔をくすぐる。だが、それが姉の身体から離れた途端、非常に汚らわしいものに思えてしまうのだ。
私が思うに、人間の髪の毛は抜けた瞬間、生から死へ変わるからだと思う。頭髪としてまとまっているときは美しいと思えても、抜け落ちてしまったら、それは死骸と同じである。
死骸。それは虫でも動物でも、人間に嫌悪感をもたらす。花も咲いているときはいいが、枯れてしおれてしまえば目を背けたくなる。生あるものが避けては通れない末路。それが本能的に人間を感化させてしまうに違いない。
だから、食べ物に髪の毛が入っていると、人間は必要以上に嫌悪感を覚えるのだ。ましてや私の場合、夕べに引き続いて二度目である。食欲が減退するのも無理はなかった。
それにしても、あんなに長い髪の毛が、一体、どこで混入したのだろうか。長さからして、広務のものではなく私の髪の毛には違いない。米を研いだときか、それとも炊飯器をセットするときか。少なくとも、あれだけ中に入っていたのだから、ご飯をよそうときではなかったはずだ。
私は自然と、昨日の悪夢を思い出していた。這い登ってくる髪の毛。首を絞められ、苦しくもがき、姉に懇願する私。
あの髪の毛が夢から現実へと這い出てきたとでも言うのだろうか。まさか。
洗面台の水はずっと勢いよく出しっぱなしになっていて、飛び散るしぶきが私の服を濡らしていた。私はやっとのことで気分を落ち着け、蛇口を閉める。そして、顔を上げた。
「きゃあああああああっ!」
そのとき、私はいきなり目の前に現れた姉を見て、悲鳴を上げた。
「どうした、梢!」
驚いた広務が、すぐ洗面所へ駆けつけてくれた。私はショックで尻餅をつく格好で転倒してしまい、縮み上がっている。広務は洗面所を見渡して、何の異常もないことを確認すると、私を抱き起こした。
「何があった、梢!?」
「お、お姉ちゃんが……」
私は震える手で、洗面台の鏡を指差した。
「映美だって?」
広務は立ち上がって鏡を見、次に私を見た。少し強張った表情をしていたが、すぐに柔和な笑みに変わり、再び私の頭を優しく抱き寄せてくれる。
「バカだなぁ。キミたちは姉妹なんだから、顔立ちが似てるのは当然だろ? 自分の顔を見て、映美と見間違えたのさ」
広務はこともなげに言った。
果たしてそうだろうか。私は本当に鏡に映った自分を姉と間違えたのだろうか。
確かに、髪の毛を伸ばすようになってから、私は死んだ姉とそっくりになったと思う。しかし、第三者はいざ知らず、いくら姉妹でも自分の顔と姉の区別はつく。
姉は「映美」という名前にも関わらず、あまり笑顔を見せるようなひとではなかった。いつも感情を押し殺すようにして、表情に出さないように努めていたようにさえ思える。つまらない女だ。
一方、私は感情の起伏が激しく、それがそのまま顔に出るタイプである。姉と私は全然違う。
鏡で私を見つめていたのは、間違いなく姉だった。断言してもいい。あれは映美だ。
今頃になって、夢に出現するだけでは飽きたらず、私に恨み言を言いに来たのだろうか。まったく、鬱陶しい。生きているときは、私に一言も言い返せなかったくせに。死んでから、こんな姑息な手段で脅しをかけてくるとは。
だが、効果はてきめんだった。私の吐き気はおさまることなく、すっかり食欲を失っていた。
「大丈夫か、梢?」
広務は心配そうに私を覗き込み、背中をさすってくれた。
「ありがとう。……でも、そろそろ時間でしょ。仕事へ行って」
私は精一杯の笑顔を作って、広務を安心させようとした。
広務は私のことが気がかりな様子だったが、その背中を押してやることで、渋々と仕事へと出掛けた。
私はそれを見届けると、まだ一口も食べていなかった朝ご飯をゴミ箱に捨てた。
午前中、私は家事もせず、ベッドで寝ていた。別に一食抜いただけで具合が悪くなったということはないが、それよりも精神的なショックの方が大きい。昼も食べる気がしなかった。
しかし、いつまでもゴロゴロしているわけにもいかない。私は体を動かしてシャキッとしようと、部屋の掃除に取りかかった。
掃除は料理や洗濯に比べて、割と好きな家事であった。トイレやバスの掃除はちょっとした大仕事だが、部屋の掃除は掃除機をかけるだけ。第一、今住んでいるアパートは2DKで、そんなに時間もかからない。
だが、この日は違った。
ダイニングはフローリングになっているが、奥の寝室には部屋一面にカーペットが敷かれている。広務が独身の頃から敷いてあるカーペットで、古いが濃いグレーのせいで、あまり汚れは目立たない。
ところが、今日に限って、私はカーペットに落ちている髪の毛が気になった。普段は気がつかなかったが、よくよく見てみるとかなりの髪の毛が落ちている。いわゆる、私たちの身体から離れ、死骸となった髪の毛たちだ。それを見ているうちに気分が悪くなり、私はそれを掃除機で吸い込もうと躍起になった。
しかし、カーペットの上に落ちた髪の毛ほど厄介なものはなかった。絨毯の繊維に髪の毛が絡まり、あるいは刺さって、まだ新品であるはずの掃除機の吸引力を持ってしても、なかなか吸い取ることができないのである。私は掃除機のブラシを強くカーペットに押しつけ、何度も何度もホースを動かした。
もし、ここに誰かがいて、私の姿を見たら、滑稽に思ったことだろう。それほど真剣に、私はカーペットの髪の毛と格闘していた。この部屋から一本たりとも髪の毛を残さないように。
私の掃除は熱を帯びすぎて、つい力が入ってしまった。勢い余って、部屋の隅に置かれていたイーゼルに掃除機のホースをぶつけてしまう。アッと思ったときは、もう遅い。イーゼルは派手な音を立てて倒れた。
広務が姉をモデルにして描いた、あのキャンバスが乗ったイーゼルだ。私は絵が傷ついてしまわなかったかと思い、慌てて確かめた。
白い布を剥ぎ、キャンバスをひっくり返す。その刹那、伸ばしかけていた私の手は、思わず止まった。
「ウソ……」
私は見た。昨日も見たはずの姉の絵を。だが──
それは昨日と少し違っていた。姉を知らない人が見ていたら、多分、気づかなかっただろう。でも、私は妹だ。十七年間、一緒に生活してきた家族だ。
椅子に腰掛けた女性の絵。それは昨日と変わらない。
表情のない顔。それも同じだ。
違うのは──
私は震える指をキャンパスに伸ばし、絵をなぞった。
長い黒髪は、昨日は背中くらいだったものが、いきなり腰の辺りまで伸びていた。気のせいなどではない。現に、今の私の髪は背中くらい。生前の姉と同じくらいに伸ばしているのだ。
それなのに、この絵は!
広務が描き加えたはずがない。ここにいるときは私も一緒なのだ。そんな姿など見ていない。それに長くなった黒髪の絵の具は、他のところと同様に乾いて見えた。
──絵に描かれた髪の毛が伸びた!
私はその事実に震撼し、冷水を浴びせられたような気分になった。