「ただいま」
広務の声に、私は目覚めた。重たい頭をもたげて、枕元のデジタル時計を見る。夜七時。ちょっと横になったつもりが、すっかり寝てしまったようだ。
「梢?」
部屋の電気がつけられた。私は眩しさに目を細める。ベッドで寝ていた私を見つけ、心配そうな広務の顔が近づいてきた。
「ご、ごめんなさい。私ったら……」
夕方、買い物へ出る前に、ほんの少し仮眠を取るつもりが、こんな時間まで寝てしまうとは。当然、夕飯の支度など、何もできていなかった。
「具合が悪いのかい? いいよ。そのまま寝てるといい」
広務はそっと私の額に手を当てて言った。熱を計っているようだ。私は申し訳ない気持ちで一杯になる。
「すぐに何か作るから」
私が起き上がろうとすると、広務はそれを制した。
「いいから。今朝、様子がおかしかったから、こんなことじゃないかと思って、早く帰ってきたんだ。たまには僕が作るよ。これでも一人暮らしは長かったからね」
「でも、何も買ってないわ」
「あり合わせで充分だよ。だから、あまり豪勢なものは期待しないでくれよ」
広務はそう微笑むと、私の額に口づけし、眠れるよう再び部屋の電気を消した。そして、ネクタイを外しながらキッチンの方へ歩いていく。私は再び横になりながら、ぼんやりとその背中を見つめた。
朝と昼の食事を抜いただけなのに、私の身体はまったく力が入らなかった。何かをする気力も起きない。一体、どうしてしまったのか。
そうしているうちに、またうつらうつらしてきた。ダメ。いい加減、起きなくちゃ。広務にばかり料理を任せるだなんて。
私は眠ろうとする身体を叱咤するように、起き上がろうとした。
しかし、身体は金縛りにあったかのように、全然、動かなかった。
広務を呼ぼうとする。が、声も出ない。
金縛りなんて、初めての経験だった。疲れているときになりやすいと話に聞いたことがあるが。
すると、私の視界の隅に、“何か”が“いる”のが“見えた”。
寝ている私の足下。あのイーゼルが立てかけられている方向だ。そこに“何か”が“いる”!
部屋が暗いせいで、はっきりとはしない。が、それは誰かの後ろ姿に見えた。いや、思えた。
(お姉ちゃん……?)
あの夢の一場面が思い出された。この部屋で、広務の絵のモデルになっている姉。後ろ姿のまま、私からは決して顔が見えない。
私はまた夢を見ているのか。それとも、これは現実?
すると私の裸足に、何か触れてくるものがあった。またしても夢の恐怖がフラッシュバックする。実際に見ることは出来ないが、それは髪の毛に違いなかった。それは徐々に私の身体を這い登ってくる。
(ヤダ……ヤダ……やめてよ!)
私は身をよじろうとした。声も上げようとした。
だが、金縛り状態の私に抗う術はなかった。
とうとう髪の毛は、私の首へ──
「梢」
パチッと部屋の電気がつけられた途端、姉らしき気配も伸びる黒髪も消失していた。同時に金縛りも解ける。私は寝汗をびっしょりかいていた。そして、大きく酸素を求める。
「どうした?」
広務が怪訝そうな顔で寝室を覗き込んでいた。私は顔に張りついた自分の髪を払うようにしながら、
「何でもない」
と答えた。しかし、私の顔はきっと青ざめていたことだろう。
広務はまたしても私を気遣わしげに見ていたが、逆にリラックスさせるような雰囲気に切り替えて、
「夕食なんだけど、どうもうまくいかないんで、パスタのデリバリーを取ったよ。梢はカルボナーラで良かったよね?」
と尋ねた。カルボナーラは私の好物だ。少しでも元気になってもらおうと、広務が気を利かせたに違いない。私は精一杯の笑みでうなずいた。
「うん、ありがとう」
「もう届いてるよ。食べられそうかい?」
私は枕元のデジタル時計を見た。広務が帰ってから、まだ数分しか経っていないと思っていたら、いつの間にか夜の八時半近くになっていて驚く。やっぱり、さっきのは昨日と同じく夢だったのだろうか。
これ以上、広務に心配させるのも気が引けたので、私は無理にでも起き上がった。
「ちょっとは食べて、精力つけなくちゃね」
そのときの私の笑みは、とても弱々しかったと思う。
食事をした私は少しだけ元気を取り戻し、後片付けを広務に任せて、先にお風呂に入った。
具合が悪いならやめておいた方がいいのではないかと広務には言われたが、私は毎日、シャンプーをしないと気が済まない質だ。中学の頃から、たとえ風邪で学校を休むようなことになっても、朝シャンだけは欠かさなかった。両親からは、散々、呆れられたものである。
ましてや、今は髪の毛をロングに伸ばしており、毎日の手入れは重要だ。美しい髪を保つのは、姉の面影をまだ追い求めている広務のためでもある。結婚はしたものの、私はいつまで広務をつなぎ止めていられるか、その自信が未だに持てなかった。
髪の毛を伸ばしてから気づいたのだが、長髪だと洗髪の時間がかなりかかる。昔は簡単に二度シャン&リンスが出来たのに、今は十分くらい平気で要す。冬場は湯冷めしそうだ。
私は丹念にシャンプーをしていた。シャワーのお湯とシャンプーの泡が排水口へと流れていく。
その中には私の頭から抜けた長い髪の毛もあった。生き物のように渦を巻いて排水口へと吸い込まれていくさまを、私はシャンプーがしみてきそうな目で、何となく眺める。
だが、長い髪は排水口の蓋にからみやすい。見る間に排水口は、私の髪の毛によって覆われていった。
その有様を見ているうちに、私は次第に気分が悪くなってきた。抜け落ちた髪の毛がおぞましく見える。汚らしい。不潔だ。吐き気を催す。
私はシャワーで排水口の髪の毛を流そうとした。だが、今度はその手に私の濡れた髪がまとわりつく。気持ち悪い。自分の体の一部であるはずなのに。
私はバスルームで一人、自分の髪の毛を振りほどこうと必死になった。昼間、掃除機でカーペットの髪の毛を吸い尽くそうとしていたのと同じだ。だが、髪の毛はしつこく、私からなかなか離れようとしない。
絡みつく髪の毛には、姉の暗い情念が宿っているような気がした。死んでもなお、広務への未練を断ち切れず、私への嫉妬をたぎらせている、そんな姉の想い。
髪は女の命だという。そう言えば、姉の遺髪を持ち帰った広務は、どこにしまっているのだろう。ひょっとして、その遺髪に姉の恨みつらみが込められ、こうして私を苦しめているのではないだろうか。
とうとう私は洗髪の途中でシャワーを頭から浴び、髪の毛をすべて洗い流した。だが、それでもさっぱりしたどころか、気持ち悪さが込み上げる。私は逃げるようにして、湯船に浸かろうとした。
「──!」
悲鳴を上げる暇もなかった。私は片足を入れたバスタブの底で滑り、湯船の中に潜ってしまったのだ。
ごぼごぼごぼごぼっ!
一瞬、パニックになった。立てばなんてことのないはずのバスタブで、恥ずかしいことに溺れそうになる。
倒れた拍子にお風呂のお湯を呑み、呼吸が苦しくなった。私は起き上がろうとバスタブの淵につかまろうとするが、その手はつるりと滑る。起きあがれない。手足の先を除いて、全身がすっぽりとバスタブにはまっている状態だ。このままだと溺れ死んでしまう。恐怖が益々、気を動転させた。
手足をバタバタさせても、私は立てなかった。身体は完全に沈み、浮かび上がることが困難だ。そのとき、私は誰かに引っ張られているような気がした。
──まさか、一人がやっとのバスタブの中で?
もちろん、バスタブどころかバスルームには私しかいない。だが、私は確かに感じていた。引きずり込もうとする何者かの意志を。
(助けて、広務!)
私が助けを呼ぼうとしても、ただ酸素を失っていくばかりだった。段々と気が遠くなる。私の髪の毛が海草のように揺らめき、波打つ水面がキラキラとバスルームの照明を輝かせているのが見えた。
これまでか──と思った刹那、湯船の上から沈んでいる私を覗き込む顔が見えた。広務ではない。髪の長い女性みたいだった。
(お姉ちゃん!?)
私は懸命に腕を伸ばした。すると、その手がしっかりとつかまれる。そして、力強く引っ張られた。
ざばーっ!
「ぷはぁーっ! はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
手を引っ張ってもらったことによって、私はバスタブから顔を出すことが出来た。髪を掻き上げ、九死に一生を得て、大きく喘ぐ。
落ち着いてからバスルームを見渡すと、そこには誰もいなかった。しかし、私の手には、確かに誰かに引っ張ってもらった感触が。
一体、私を助けてくれたのは誰なのか。私は危うく死にそうになったことに震えながら、シャワーからしたたり落ちる水滴の音を聞いていた。