食べる物を前にすると吐き気を覚えるようになった私は、とうとう体調を崩してしまった。
健康だけが取り柄だった私が、まさかこんなことになるとは。一日中、ベッドで横になる生活になり、私は忸怩たる思いを抱いていた。こんなことじゃいけないと思う。しかし、だからといって起き上がろうという気力すら持つことが出来ない。今やトイレに立つときでさえ、足下がフラついた。
日に日にやつれていく私を見て、広務は非常に心配してくれた。最近は残業も断っているようで、定時に帰ってきては、私を献身的に看護してくれる。
そんな広務に連れられて、私は病院で診察してもらった。結果は拒食症。予想通りだった。
普通、拒食症──神経性食欲不振症は過剰なダイエットによって食べなくなるというものだ。やがて著しい体重の激減によって、女性ホルモンのバランスが崩れ、二次的な無月経を引き起こすのだという。また、ある時期になると過食状態──神経性大食症へ進み、大食いや隠れ食いをすることもあるらしい。だが、ダイエットへの意識が強くあるため、下剤を乱用したり、自分の口に指を突っ込み、食べたら吐くというのを繰り返してしまい、結局はまともな摂食ができないままになってしまうのだ。
このように、拒食症と過食症は表裏一体で、その総称を摂食障害という。特に若い女性が陥りやすく、私の場合、別にダイエットが原因ではないが、食べなくなるという点では同じだと言えた。
診断後、私は点滴で栄養状態を回復させつつ、食に対する誤ったイメージを払拭させるためのカウンセリングを受けた。もちろん、一日やそこらで治るというわけではないが、それらの治療法によって少しは持ち直すことができ、幾分、気が楽になった。それからは定期的に通院している。
それでも、なかなか食事を摂るというところまで至らなかった。広務はいろいろなものを作って、私に食べさせようとしてくれるのだが、いざ料理を目の前にすると、中に髪の毛が混じってないかと探してしまい、そのうち嘔吐感を覚えるのだ。広務が作ってくれたものに髪の毛なんかが混入しているわけがないと頭では思いながら、どうしても体は食事を受けつけようとしなかった。
そのときの広務の顔を見ていると、私もつらくなる。そうこうしているうちに、広務も一緒になって食事を摂らないことが多くなった。
ある日、広務が私に言った。
「梢、東京を離れないか?」
意外な提案に、私は驚いた。
「東京を離れるって……どこへ行くの?」
「京都。山の中の田舎なんだけどね、僕の実家があるんだよ」
「え? でも……」
広務には兄弟がおらず、両親もすでに亡くなっていると聞いていた。出身は京都でも、まだ実家が残っているとは初耳だ。
「もう十年以上、帰っていないし、多分、家も荒れ放題だと思うけど、直せば住めないことはないよ、きっと。梢の病気は、やっぱり精神的なストレスから来るものだと思うんだ。だから、こんなゴチャゴチャした東京にいるよりも、何もないけど、広々として空気の美味しい田舎で暮らした方がいいんじゃないかと思って。どうだろう? イヤかい?」
私はかぶりを振った。
「ううん。私は東京生まれの東京育ちだけど、広務と一緒ならどこでもいい」
それは本心からの言葉だった。
「そうか、良かった」
広務はホッとしたように笑った。これで一安心だと思ったのだろう。しかし、私にはまだ訊きたいことがあった。
「でも、広務、会計士の仕事はどうするの? 辞めちゃうの?」
私のために仕事まで辞めてしまうのかと思うと、何だか気が引けた。だが、広務は心配するな、とでも言いたげに、私の手を優しく握ってくる。
「会計士の仕事が何だ。第一、そんなのは東京じゃなくったって出来るよ。僕が心配なのは、梢、キミだけだ。このままキミを失いたくない」
広務は私の腰へしがみつくような格好で抱きついてきた。まるで子供のようだ。私は大きな子供をあやすように、その頭をそっと撫でた。
「大丈夫よ、私はずっと広務のそばにいるから」
「もうイヤなんだ……僕の大事なひとが次々にいなくなってしまうのは……母さんも……映美も……祐理ネエも……みんな、僕のところから去っていってしまう……」
私は広務の言葉の中に知らない名前を聞き咎めた。
「祐理ネエって?」
「従姉だよ。母さんが死んで、こっちの親戚を頼って来たとき、僕に良くしてくれたんだ。でも……その祐理ネエも死んでしまった。家の階段から転げ落ちてね」
「………」
そのとき私は、姉が死んだ瞬間を頭に思い浮かべた。もちろん、私は姉が死んだ瞬間を実際には見ていない。あくまでも想像だ。しかし、これまでにも何度も繰り返し思い描いたイメージである。
走ってくる快速電車。駅のホームにはあふれんばかりの人たちが待っている。その中にぽつんと立っている姉。一番前だ。
その姉が弾かれるようにして線路へ落ちる……。
悲鳴。轟音。暗転。
自分で描いたイメージのはずなのに、私は違和感を持った。
線路への落ち方が不自然だ。自分で落ちたのではない。まるで誰かに突き飛ばされたような……。
姉の死は、三年経つ今も自殺か事故か、それとも事件か、まったく分からないままだった。目撃証言は姉が自分で飛び込んだというものがほとんどだが、中には押されたのだと言い張る人がいて、結局、どちらも立証されずに捜査は打ち切られてしまった。
私は姉の自殺だと思っている。私に広務を取られそうになり、思いあまった自殺だと。私を良心の呵責にさいなませるために取った、精一杯の姉の復讐なのだと。
それなのに、どうして私は誰かに落とされたようなイメージを持ち続けているのだろうか。
私は広務の頭を撫でながら、自分自身に疑問を持たずにいられなかった。
その夜、私はまた夢の中にいた。
ただ、今日はいつもと違う。広務が姉の絵を描いている夢ではない。
知らない家の中だった。古い、年代を感じさせるボロ家だ。木造の床も壁も天井も、みんな、黒ずんで見える。私はその家の廊下とおぼしきところに立っていた。夢のせいなのか、見るものすべてがモノクロで、なんとなく昔という感じがする。
どこからか笑い声がした。若い女の嬌声である。私はそちらへ移動してみた。
四畳半の部屋に若い男女がいた。もっとも男の方は若いなんてものじゃなく、まだ小学校高学年くらいの子供だ。ランニングシャツに短パン姿で、敷かれた布団の上に座り、鉛筆とスケッチブックを握りしめている。
一方、女の方は高校生くらいに見えた。髪は私ぐらい長く伸ばし、男の子の前に座っている。ギョッとしたのは、その服装だった。しどけないスリップ姿で、左側の肩紐が外れ、裾も大胆にめくりあげて、なまめかしい白い太腿が露わになっている。男の子は明らかに目のやり場に困っていた。
部屋の窓にはすだれと風鈴がかけられ、今が夏だと分かった。それにしても、乱れた布団の上に座った、この二人の格好は。淫靡な匂いがした。
「どうしたの、ヒロくん? ちゃんと見ないと描けないわよ」
下着姿の少女は男の子の純情さをからかうように言った。男の子は顔を上げられず、また肝心な絵も描けないでいる。
「もお、何を恥ずかしがってんのよ。昔は二人でお風呂にも入ったことあるじゃない。それに、今はヒロくんと私の二人だけ。二人だけの内緒よ」
少女はそう言うと、男の子へにじり寄った。そして、男の子の素足に触れる。
男の子はビクッと体を震わせた。だが、その手を拒みはしない。
少女はそれをいいことに、さらに太腿の付け根へと手を滑らせた。
今度はさすがの男の子も恥ずかしかったらしく、少女の手をつかんで止めた。少女は男の子の一人前に膨らんだ股間を見てから、いたずらっぽい表情を浮かべる。そして、今度は反対に少年の手を取り、自分の胸へ導いた。
「ゆ、祐理ネエ……」
男の子は可愛いくらいに狼狽した。
そのとき、私は悟った。目の前の男の子は幼い日の広務だ。そして、この淫靡な遊びを楽しんでいる少女は、彼の従姉という祐理に違いない。
「どう、私のオッパイ? ヒロくんは、お母さんのしか触ったことないんでしょ? いいのよ、私のを触っても。私がヒロくんの淋しさを紛らわせてあげる」
祐理に言われるがまま、広務は恐る恐るといった感じで、スリップの上から弾力のある乳房を揉んだ。私はそんな祐理に嫉妬を覚える。まるで三年前の私自身を見ているようだ。
祐理は広務に胸を触らせながら、反対の手では自分の髪をつまみ、その毛先を鼻先でくすぐるようにした。
「この髪も、ヒロくんのために伸ばしているのよ。ほら、ヒロくんのお母さんみたいでしょ? これからは私がヒロくんを守ってあげるからね」
まるで催眠術でもかけるかのように囁きながら、祐理は広務へ顔を近づけた。唇が触れそうになる。熱に浮かされたように乳房への愛撫に没頭していた広務は、いきなり我に返り、祐理から逃れた。
「や、やめてよ、祐理ネエ!」
「ヒロくん……」
「だ、ダメだよ、もう!」
淫らな誘惑を振り切るように、広務は立ち上がって、部屋を出ていった。そのまま一階への階段を駆け下りていく。
祐理は一瞬、呆気に取られたような感じだったが、すぐに淫蕩な小娘の顔に戻った。
「照れちゃって、可愛いんだから。待ちなさいよぉ! お姉さんの言うことを聞かないと、あとでどうなっても知らないわよぉ!」
そう言って祐理は、広務の後を追いかけた。廊下にいる私のすぐ横を駆け抜ける。
振り返った私だったが、いつの間にか場面が換わっていた。一階の階段の下。幼い広務が降りてきたところだ。
「ヒロくんったら!」
面白半分に追いかけてくる祐理が階段の上に見えた。
が、いきなり、その上体が前のめりになる。
スローモーションのように、祐理の顔が恐怖へ引きつるのが分かった。
だが、時間の流れは突如として元に戻り、祐理の身体は、鮮やかに一回転して階段を落下する。私は目をつむりたかったが、夢はすべてを克明に見させた。
身体と階段がぶつかる音が断続的に聞こえた後、階下の床に祐理のなまめかしい肢体が力なく投げ出された。仰向けになったその顔に、長い黒髪がバサリと覆う。目は見開かれたまま、虚空を見つめていた。
祐理の最期。私は夢の中で、その痛ましい遺体を見下ろしていた。