[←前頁] [RED文庫] [新・読書感想文] [あとがき]
いよいよ広務の故郷へ引っ越す日が近づいてきた。
広務は今日、会計事務所に辞表を出すと言っていた。私のせいで職場をやめることに心苦しさを感じていたが、広務はまったく意に返したような素振りを見せず、逆にこちらの方が励まされてしまうことが多い。本当に私は広務と一緒になれて良かったと思う。
病院で点滴を受けてきた私は、少しだけ元気を取り戻し、引っ越しの荷造りに取りかかった。広務には自分がやるからと言われていたが、すべてを任すわけにもいかない。ちょっとずつでも片づけようと思った。
カーペットの床にぺたんと座り込みながら、私は押し入れの物を整理していた。まだ、結婚したばかりなので、ほとんどは広務の物だ。とりあえず持っていきそうなものをチョイスし、分からない物はあとで見てもらうことにした。
だが、片づけをしているうちに、私の手は止まりがちになっていった。あの夢のことが、どうしても脳裏から離れないのである。
広務の従姉だった祐理の最期。夢の映像はモノクロだったが、非常に生々しいものだった。階段を転げ落ちる祐理。今、思い出してもゾッとする。
それにしても、どうしてあんな夢を見たのか。
広務が姉の絵を描いている夢といい、何か私に伝えようとしているように思えてならなかった。やはり、私を脅かす長い髪の毛と関係があるのだろうか。こんなことでは、せっかく環境を変えても、いつまでも悩まされそうだ。
何か霊能力者みたいなものに頼るべきだろうかと考えながら押し入れを整理していると、奥の方から小さな桐箱が出てきた。重さはあまり感じない。振っても音はしなかった。
私は興味を覚えて、桐箱の蓋を開けてみた。その瞬間、心臓が止まりそうになる。
中にしまってあったのは遺髪だった。反射的に吐き気が込み上げる。広務が持ち帰った姉のものか。だが、遺髪は三つの房に分けられ、それぞれ白い和紙によって束ねられていた。
私は震える手で、遺髪に手を伸ばした。遺髪を束ねている和紙に、鉛筆で文字が書かれている。
『映美』
別のものも見てみた。
『祐理』
私はゾッとした。広務は自分の目の前で死んだ従姉の遺髪も持っていたのだ。
となれば、最後に残った、この遺髪は──
『母』
「キャッ!」
その文字を読んだ途端、押し入れの中でガタンと音がして、私は思わず悲鳴を上げてしまった。どうやら中の物を取りだしているうちに、何かが崩れたらしい。だが、あまりのタイミングの良さに、動悸がして、背筋に薄ら寒いものを感じた。
だが、気味が悪いのは広務に対しても同じだ。どうして三人の女性の遺髪を後生大事に持っているのか。いくら愛していた女性たちとは言え、私は嫉妬と戦慄を覚えずにいられなかった。
三つの遺髪を荒々しく桐箱に入れ、脇に置くと、押し入れの中で崩れた物を手に取った。今度はお中元などで贈るような、海苔の詰め合わせが入っている紙の箱だ。だが、今度はズシリと重い。どうやら中身は別の物のようだ。
私はまた開けてみた。するとB5判の大学ノートが十冊以上入っている。表紙には「日記」という文字と、記載した年月日の数字がまたいで書かれていた。
広務の日記だろうか。だが、表紙に書かれた文字や数字は、広務の書体と異なる。では、一体誰のなのか。
私はページをめくった。
ノートを開いた瞬間、私は全身が粟立ち、気分が悪くなった。ノートには無数の髪の毛が挟んであったのだ。
私は思わずノートを放り投げた。ところが、ノートの髪の毛はまったく散らばらず、そのまま紙の上に存在し続けていた。私は自分の目を疑い、恐る恐る、もう一度、ノートを覗き込む。
髪の毛と思ったのは、黒い万年筆で書かれたらしい文章だった。ただ、非常に細くかすれるような字で、さらに一筆書きのように文字同士がつながっているため、髪の毛のように見えるのだ。しかも文章はノートの一面にびっしりと埋められており、きっと私でなくとも見間違ったことだろう。
私はもう一度、ノートを手に取った。
どうやら日記は縦書きで書かれているようだったが、一筆書きのせいか私にはなかなか読みとれなかった。だが、時折、「病気」や「死」など不吉な言葉が見られる。
苦労して読んでいくと、どうやら広務の死んだ母親が書き残した日記らしい。病床で自分の余命がいくばくもないと悟り、広務を残して死ぬことの未練を綴っている。だから、ペン先に力が入らず、かすれるような文字になっているのだろう。
私は日記の最後を読んでみた。
「『私が死んだら、広務はどうなってしまうのだろう。それを思うと胸が張り裂けそうになる。死にたくない。ずっと広務を見守りたい。広務を奪われるのは、絶対に嫌だ』……」
母親の溺愛ぶりが容易に想像できた。さぞや広務を残して死に、無念だったことだろう。広務も母親を心から愛していたに違いない。だから、今でも母親の遺髪を大事にしまっているのだ。
私は日記を箱にしまおうとした。するとノートに挟まっていたのか、一枚の写真が私の膝元に落ちた。
「──!」
私は古い写真を見て、愕然とした。まだ三才くらいの子供を膝の上に乗せ、柔らかに微笑んでいる髪の長い女性。
「お、お姉ちゃん……?」
それは姉に似ていた。つまりそれは、今の私に似ているということだ。そして、夢の中で見た広務の従姉、祐理とも瓜二つ。
だが、写真の子供が広務だとすれば、彼の母親と考えるのが当然だった。それにしても写真の母親は私たちに似すぎている。
広務はずっと母の面影を追っていたのではないか。ここまで母親とそっくりな女性たちとばかり付き合ってきたのなら、偶然のはずがない。
そんな考えが浮かんだ。
私はハッとして、立ち上がった。そして、部屋の隅にあるイーゼルの布を剥ぎ取る。
キャンバスに描かれた女性の絵。
私は悟った。広務が描いていたのは姉の映美ではない。姉をモデルにしながら、幼い日になくした母親を描いていたのだ。
そして──
絵の中の女性の髪は、もう床につきそうなくらいまで伸びていた。さらに、のっぺらぼうだったはずの顔に表情が浮かび上がり始めている。それは姉であり、姉でなく、私であり、私でなく、祐理であり、祐理でない顔。
広務の母は死んでもなお、こうして絵の中で息子を見守り続けていた。その結果──
広務と親しかった従姉の祐理が死んだ。
広務の婚約者だった姉の映美が死んだ。
では、広務と結婚した私は──?
私は後ずさった。その脚へ何かが触れる。
「ヒッ!」
私はすくみ上がった。桐箱の中から私の足下へ、髪の毛が伸びている。
私は足踏みするようにして髪の毛を払い、寝室から隣の部屋へ出た。だが、髪の毛は執拗に私の後を追いかけてくる。私は病院から帰ってテーブルの上に置きっぱなしにしていたバッグをつかむと、靴を履くのももどかしく外へ出た。
(逃げなくちゃ! 今度は私が殺される!)
私はもつれそうになる自分の脚を叱咤しながら、階段を降りようとした。そのとき、いきなり背中を誰かに押される。
「キャッ!」
私は慌てて、階段の手すりにしがみついた。かろうじて転落を免れる。誰が押したのかと後ろを振り返っても、怪しい人影すらなかった。その代わりに、今度は玄関の扉の下から髪の毛が這い出てくるのが見えた。
「イヤッ! 助けて! 誰か!」
私は手すりをつかみながら、慎重に階段を降りた。そして、バッグから携帯電話を取り出し、広務に電話する。
しかし、運の悪いことにバッテリー切れで携帯電話は使い物にならなかった。いや、これも偶然ではないのかもしれない。
とにかく広務のところへ。私の頭にはそれしかなかった。
私は体がふらつくのも構わず、駅の方角へ急いだ。途中、タクシーを拾おうと思ったが、こういうときに限って、一台も通りかからない。そのうち駅に到着してしまった。
駅には客待ちのタクシーが停まっていた。私はそれに乗ろうと、足を向けかける。だが、タクシーのドアから、またしても髪の毛が這い出ようとしているのを見て立ちすくんだ。タクシーもダメだ。もう電車で広務の勤め先まで行くしかない。
だが、電車はもっと危険だと言えた。姉はホームから転落して、快速電車に轢かれたのである。自殺だとばかり思っていたが、数少ない目撃者の証言通り、“誰か”に突き落とされたのだとすれば、私も同じような目に遭わないとも限らない。とはいえ、他にどうしたらいいか考えつかなかった。
私は切符を買い、改札を通ると、ホームへの階段をまた手すりにしがみつくようにして登った。上まで辿り着くと、すぐにベンチの方へと行く。ホームの端に立たなければ、突き落とされることはないだろう。私は体を丸めるようにしてベンチに座りながら、早く電車が来ないかと待ちわびた。
『間もなく、一番線に電車が通過致します。危険ですので、白線の内側まで下がって、お待ちください』
アナウンスが流れるのを聞き、私は顔を上げた。その視界に信じられぬものが飛び込んでくる。
姉だ。姉の映美が線路を挟んだ反対側のホームに立っていた。
「お姉ちゃん……」
私は思わず立ち上がった。
姉は私を見つめながら、口を動かしていた。当然、何を言っているかは聞こえない。
「お姉ちゃん!」
姉が死んだときも、こうしてホームに立っていたのだろう。私は初めて姉の死に対し、悲しみが込み上げてきた。
姉は私のことを恨んでなどいなかったのかもしれない。ただ、私のことが心配で、見守っていたのではないか。
風呂場で溺れそうになったとき、私の手を引っ張って助けてくれたのは姉だったのかもしれないと思うと、私は今まで姉にしてきた仕打ちを心から悔いた。
快速電車の接近を告げるベルが鳴った。
私はハッとした。いつの間にかベンチから離れ、ホームの端に立っている。
姉を見た。悲しげな顔。間に合わなかったとでも言う風に。
快速電車が入ってきた。大きな警笛が鳴る。私は後ろに下がろうとした。
「──っ!」
突然、誰かに背中を押された。すっかり体力が弱った私の体は踏みとどまることが出来ず、線路へと落ちていく。
そのとき、私はチラリと突き飛ばした影を見た。
私を冷徹な目で見つめ、口許に笑みを浮かべていたのは、髪の長い女性。
それは広務の母親だっただろうか。
姉の映美だったろうか。
それとも祐理だったか。
いや、私自身かもしれない。
私は振り向きざまに宙をつかんだ。その手に繊細な感触を覚える。それは髪の毛。長く細い髪の毛だった。
線路へ落ちた私は気絶もせず、迫ってくる快速電車を見つめた。スピードを緩めず、突っ込んでくる。私は目をつむった。
快速電車は私の体を粉微塵に吹き飛ばし、悲鳴のようなブレーキ音を響かせた。
壁紙提供=篝火幻燈