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◆突発性競作企画第15弾「世界の名言」参加作品◆

ロミオとジュリエットは結ばれるのか?

−5−

 体育館のステージ袖から見下ろす客席は、深雪にとって別世界だった。これから幕が上がると、大勢の生徒たちや来賓が、自分たちの一挙手一投足を見つめるのだ。これで緊張しない方がおかしい。
「おい、大根女優。大丈夫か?」
 後ろから声がして、深雪は軽く頭を小突かれた。幹生だ。今は貴族風の衣裳に身を包み、すっかりロミオと化している。なかなか様になっていた。
「い、痛いわねえ。他人の心配する前に、自分の心配をしなさいよね」
 幹生から目をそらしながら、深雪は悪態を返した。あのキスがあってからというもの、どうも深雪は幹生を意識しがちになっていた。しかも文化祭が近づくに連れ、どうしても一緒にいる時間が多くなり、あのときの再現シーンが何度も頭の中でリプレイされる。あれは事故だったのか、意図的なものだったのか。幹生本人には怖くて聞けず、日々、悶々と過ごしてきた。
「こういうときはなあ、“人”という字を手の平に三回書いて呑み込むんだ」
「アホか」
 そんなことで、この極度の緊張が解けるわけがない。深雪はメガネを外した。そもそもジュリエットがメガネをかけているというのもおかしい。劇中は外すことにしていた。
 ところが、深雪はあえてコンタクト・レンズを用意してこなかった。こうしておけば、目の悪い深雪には観客の顔が見えなくなる。そうすれば緊張も和らぎ、演技に集中できるというものだ。
「へー、部長ってメガネを取ると、意外に可愛いっスね」
 初めて深雪の素顔を見たらしい下級生の男子生徒が感想を漏らした。いつもならメガホンでひっぱたくところだが、なるべく気を落ち着けることに集中する。
 やがて開演ブザーが鳴った。
 与田高校演劇部による『ロミオとジュリエット』は、順調に開幕した。深雪が現代風に噛み砕いたセリフ回しは、シェイクスピアに馴染みのない学生たちにも受け入れられ、興味を持って見守られた。今朝までかかって用意した舞台セットと衣裳も効果的だった。さらにクラシック音楽からチョイスしたBGMが観客を舞台の世界へと誘っていく。
 深雪演じるジュリエットの登場には拍手が涌いた。最初のセリフこそ、声が震えたような感じだったが、本家ジュリエット役だった珠莉の演技と指導を思い出しながら、調子を上げていく。スポットライトに浮かび上がるジュリエットは、ヒロインとしての輝きを放った。
 それでも幹生演じるロミオとのシーンになると、深雪は胸が締めつけられるような思いをした。出会いのシーンと愛を囁くシーン。幹生はただロミオを演じているだけのはずなのに、深雪はまるで自分に対して言われているような気になった。幼稚園からの腐れ縁で付き合ってきたはずの仲。だが、自分でも知らない間に、幹生を一人の異性として意識していたようだ。
 考えたら、長く付き合ってきた分、お互いにイイところも悪いところも知っている。その上で気軽に話せ、冗談を言い合い、気持ちが通じ合えることなんて、同性でも稀なことだろう。近すぎて気づかなかったが、深雪にとって幹生は、もう自分の一部同然だった。
 それはひょっとして、幹生も同じ気持ちなのだろうか。深雪はロミオの奥底にいる幹生を見つめる。稽古でのアクシデントみたいなキス。それが幹生の送ってきたシグナルだとしたら。
 ハッと気がつくと、いつの間にかロミオとジュリエットの婚礼シーンまで終わっていた。深雪はどんな風に演技していたか記憶になく、一瞬、青ざめる。だが、客席も周りにいる部員たちも普通にしているところを見ると、どうやら無難に演じきれたようだ。万が一、幹生のことを考えてセリフが飛んでいたりしたら、深雪はきっと立ち直れなかっただろう。
 芝居はさらに進行した。二人の仲を快く思わないジュリエットの父は、太守の縁戚である男と娘を結婚させようとする。すると、それを知ったジュリエットと二人を手助けするロレンス神父は、仮死毒を使って結婚を回避しようと計画。つまり、ジュリエットが死んだと思わせ、その後、ロミオとどこかへ逃げ延びようというのだ。
 ところが、この計画の知らせは手違いによってロミオへ届かない。逆にジュリエットの死を知らされたロミオは、彼女の棺の前で、二人の仲を引き裂こうとした婚約者を決闘で討ち果たした後、絶望に打ちひしがれて、自ら毒薬を飲もうとする。
 舞台の中央には、観客から見やすいように立てかけられた棺があり、その中で深雪──ジュリエットが眠っていた。その傍らに幹生──ロミオが毒薬の小瓶を片手に嘆き悲しむ。『ロミオとジュリエット』、クライマックスとなる悲劇のシーンだ。その後、目覚めたジュリエットはロミオの死を知り、自ら命を絶つのである。
「ああ、ジュリエット! なぜ、あなたは死してもなお美しいのです? だが、あなたを失った今、もうこの世に未練はありません! 私も死して、あなたのお側に参りましょう!」
 ロミオは小瓶の蓋を開けた。ロミオの最期。そして、今一度、ジュリエットの顔を見て、一気に毒薬を──
 だが、いくら待っても、ロミオが死ぬときに流れるはずの効果音は、眠ったふりを続ける深雪の耳に聞こえてこなかった。それもそのはず、ロミオは小瓶を手にしたまま、一向に飲む素振りを見せなかったからだ。
 このとき、棺の中にいるジュリエットの深雪は目を閉じておらねばならず、どのような事態になっているのか、さっぱり分からなかった。不気味な静寂に、薄目を開けて様子を窺おうとするが、生憎、自分の目の悪さを思い出す。確かめられるわけがなかった。
 次第に客席がざわつき始めた。無理もない。舞台上では一切の動きが止まっているからだ。決闘に敗れた婚約者と棺のジュリエット。そして、自殺を覚悟したまま、まったく身動きしないロミオ。ステージ袖にいる演劇部員たちも戸惑っている気配が深雪にまで伝わってきた。ロミオに次のセリフはない。あとは毒薬を飲んで死ぬだけだ。
(もお、何をやってんのよ?)
 深雪はすぐそこにいるであろう幹生に怒鳴りたかった。しかし、部長自ら芝居をぶち壊すわけにもいかない。グッと耐える。と同時に、何とか芝居が進行してくれることを祈った。
 観客席からブーイングが起きようとした頃、ようやくロミオは動いた。それも思ってもいなかった行動で。
 ゴトンという何かが落ちた音を深雪は聞いた。ついに毒を飲んだか。しかし、それは違った。幹生が小道具である毒薬の小瓶を放り投げた音だったのだ。
「ジュリエット!」
 突然、ガバッと深雪の身体が抱きしめられた。幹生だ。驚いて声を上げなかったのは奇跡と言っていい。目をつむり続けている深雪には何が起こったのか分からなかった。
 幹生はいささか乱暴に深雪の身体を揺さぶってくる。深雪はされるがままになった。
「ジュリエット! 私を残してあなたが死んでしまったとはとても思えません! どうぞ、今一度、目を開けて、私を見てください!」
(な、何を言っているのよ、バカーッ!)
 当然、それは深雪の台本にないセリフだった。観客も思わぬ展開にどよめく。有名な『ロミオとジュリエット』のあらすじを知らぬわけがなく、これは予想外だった。
 幹生のアドリブは執拗だった。仮死状態のジュリエットを揺すり、頬まで叩く。眠ったふりをしている深雪も楽じゃない。誰にも知られないよう、グッと拳を握った。
「さあ、ジュリエット、目を覚まして! そして、二人で共に幸せになりましょう!」
(い、偉大なるシェイクスピアを! 私の台本を無視しやがってぇぇぇっ!)
 深雪は意地でも目を開けるわけにはいかなかった。ここで目を開けて閉まったら、悲劇『ロミオとジュリエット』ではなくなってしまう。
 ところが幹生の演技がアドリブだとは知らない観客たちは、大胆な脚色だと思い始めたようで、必死なロミオに声援と拍手を送りだした。場内が異常な盛り上がりに包まれる。
 深雪は冷や汗をかいた。段々、目を覚まさずにはいられない状況になってくる。
 すると幹生はトドメを刺した。
「ジュリエット、この熱い口づけで、どうか私の元へ戻ってきてください!」
(エーッ、く、口づけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ?)
 身構える暇もなかった。幹生の唇が深雪の唇に押し当てられる。今度こそ疑いようのない本物のキス。しかも公衆の面前でだ。
 客席からやんややんやの歓声と万雷の拍手、そして冷やかしの口笛がこだました。これはもう引くに引けない。王子様のキスでお姫様の眠りが醒めるのは、おとぎ話の鉄則だ。
 深雪は羞恥に頬を染めながら目を開けた。すると一段と拍手の音が大きくなる。目の前に幹生の顔があった。あまりに近いので、さすがにハッキリと見える。
「バカ……」
 幹生にだけ聞こえるように囁くと、深雪は自分からロミオに抱きついた。半分は演技で、半分は本物の愛情表現だ。幹生もはにかみつつ笑い、ジュリエットを強く抱きしめた。
「やっぱり、結末はこうでなくっちゃ」
 ステージの両袖から、その他の登場人物たちが苦笑しながら現れた。スタンディング・オベーションの客席に手を振る。そして、ロミオとジュリエットを中心に、横一列で手をつなぎ始めた。
 幹生が深雪の手を取った。深雪はその手を握り返す。思わず二人は視線を見合わせた。
 客席では、それを見ていた珠莉も手を叩いていた。二人の友人として、心から祝福しながら。
 登場人物たちのつながれた手が、一度、上に振り上げられた。そして、降ろすと同時に、そのまま客席へと会釈する。
 ハッピーエンドに終わった『ロミオとジュリエット』のカーテンコールには、いつまでも観客の拍手が鳴り響いた。


<了>



 突発性競作企画 第15弾 「世界の名言」


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