着替えてからカフェへ出ると、すぐに店長の奥さんである香奈恵さんが近づいてきた。
「ウチの人から話があったでしょ? どうした?」
香奈恵さんは声を潜めて、私に尋ねた。もちろん、イヴの夜のバイトのことだろう。
「え、えっと、断りました……」
香奈恵さんは、私に今、彼氏がいないことを知っている。なぜなら私が香奈恵さんによく相談しているからだ。だから、忙しいと分かっていながらバイトを断ったことに、なんとなく気が引けた。
「そう。分かった。ううん、お店のことは気にしないで。こっちは何とかするから」
香奈恵さんはそう言って、私の肩を叩いてくれた。香奈恵さんなら、店長に告げ口をするようなことはないだろう。私が今年のイヴにどれだけ賭けているかは、香奈恵さんもよく承知してくれていることだ。それだけに、未だ彼氏を作れない自分がみじめに思えてくる。
「じゃあ、早速だけど、マリナちゃん、五番テーブルにこれを」
香奈恵さんに声をかけられ、私は悩みを振り払った。今は仕事、仕事、と。
「はーい」
私は香奈恵さんからトレイを受け取ると、窓際にある五番テーブルにショコラシフォンケーキ・セットを運んだ。
「お待たせしました。ショコラシフォンケーキとローズティーのセットでございます」
五番テーブルにいたのは、およそケーキショップに似つかわしくない一人の男性客だった。まだ若い。多分、私と同じくらいか。ちょっとインテリっぽいメガネをかけ、手には文庫本。少し陰がある感じだが、なかなか整った顔立ちである。
実はこの男性客、このところ店へ通い続けている常連さんだ。いつも窓際の席で、こうして一人、本を手にしながら、ショコラシフォンケーキとローズティーのセットを注文する。一度、何を読んでいるのか気になったので、注文のケーキを出すときにこっそり本を覗き込んだら、何かの詩集のようだった。普通だったらキザったらしいと心の中で舌を出すところだが、この男性客の場合、不思議と嫌味に思えない。
私がケーキ・セットをテーブルに置くと、若い男性客は私の方をチラッと見上げてから、小さく会釈した。だが、すぐに詩集へ目線を落とす。
「どうぞ、ごゆっくり」
私はトレイを抱えながら、カウンターに戻った。そして、他の席へお冷やでも注いで回ろうかと、ウォーター・ピッチャーを手にする。そこへ香奈恵さんがスッと近寄ってきた。
「どう、あのお客さん?」
「どうって?」
「なかなかイイ男じゃない? マリナちゃんに気があるのかも」
「え? ヤだ、香奈恵さん」
妙に意識するようなことを言われ、私は小声で香奈恵さんに異議を唱えた。だが、香奈恵さんは悪戯っぽい笑みを見せる。
「あら、私の見立てだと、その可能性は充分だと思うけど? あのお客さん、いつもこの時間帯にやって来るじゃないの。まるでマリナちゃんがここのバイトに来るのを知っているみたいに」
「ぐ、偶然でしょう、偶然」
香奈恵さんの指摘に、私はぎこちなく笑った。でも、香奈恵さんは単に私をからかっているわけではないらしい。
「そうかしら? 気づいている? あのお客さん、たまにこっちをチラッて見るのよ」
香奈恵さんがそう言った矢先、五番テーブルの男性客はローズティーを口にしてから、ふと、こちらに目線を送ってきた。それは一瞬だったが、なんとなく私と目が合ってしまう。男性客はすぐに視線を文庫本に戻したが、その目はもう詩の内容を追っているようには見えなかった。私に気づかれたと意識したからだ。
「ほらね。私の言ったとおりでしょ?」
香奈恵さんは得意げに耳打ちした。一方、私はといえば、そんな香奈恵さんの言葉など、まったく耳に入らない。
(あのひとが私のことを? ホントに?)
私は、もう一度、五番テーブルの男性客をこっそりと盗み見た。改めて品定めをすると、かなりカッコいい青年だ。つい、交際を申し込まれたらどうしよう、などと想像し、一人で勝手にドギマギしてしまう。これもクリスマス・イヴが近いせいかなぁ。
男性客はショコラシフォンケーキとローズティーを味わいつつ、小一時間ほど詩集を読んでいた。やがて、席を立つと、レジへとやって来る。
私は香奈恵さんの姿を捜したが、店の奥へでも引っ込んだのか、どこにも見当たらなかった。ひょっとすると、彼と私の接点を少しでも作ろうと変な気を回したのかもしれない。もお、香奈恵さんったら。私、困る。
でも、だからといって会計を無視するわけにはいかなかった。私はレジへ先回りし、伝票を受け取る。
「えーと、ショコラシフォンケーキとローズティーのセットで、五百円になります」
私は努めて冷静さを装おうとした。しかし、妙に意識してしまって、レジと伝票を睨んだまま、顔を上げられない。そんなことをすれば、今度は私の方が彼に心の内を見透かされそうな気がしたからだ。
男性客はジャケットの内ポケットから財布を取り出すと、私に千円札を渡した。私はそれを受け取りながら、レジを操作する。
「千円、お預かりします。──五百円のお返しです。ありがとうございました」
私はおつりを渡そうとした。そのとき差し出された彼の手。今までだって、何度となく見てきたはずなのに、男性にしてはきれいな指先に、思わずハッとした。
そんな彼の手に見取れていたつもりはないのだが、おつりの五百円玉を渡すとき、私の指先が彼の手に触れた。うわぁ、恋も知らないウブな小娘じゃあるまいし、何なのよ、この緊張。私は静電気でも走ったかのように、素早く手を引っ込めた。
「あの……」
突然、青年が話しかけてきた。店からの帰り際。それも、この私に。注文を伺うときを除けば、初めてのことだ。
私は目線を下に落としたまま固まった。ど、どうしよう。一瞬の沈黙がとてつもなく長い時間に感じられた。何か、喋らなきゃ。何か。
しかし、次に出た青年の言葉は、私が何百とシミュレートしていたものとは、まったく異なった。
「あの、ここのケーキは、みんな、この店の自家製なんですか?」
「は?」
唐突な問い合わせに、私はポカンと口を開けて、青年の顔を見つめた。ところが眼鏡の奥で私に向けられている彼の目は真剣そのもの。私は気圧されそうになった。
「そ、そうですけど……」
私はおずおずと答えた。ひょっとして、食べたケーキに何か異物でも混入していたんじゃ。クレームか?
「ぜひ、店主の方と会わせてください」
そう言って、青年は私に頭を下げた。意外な成り行きに、私はどうしていいか分からなくなる。
そこへ店の奥から香奈恵さんが現れた。きっと私たちの様子をこっそり窺っていたに違いない。だったら、最初から会計をやってくださいよ、香奈恵さん。
「お客様、どうかされましたか?」
香奈恵さんが応対に出ると、青年は、益々、緊張の表情に変わった。
「突然ですみません。僕は田崎洋平と申します。実は僕、調理師専門学校の学生なんです。将来はケーキ作りをやりたいと思っていまして。……ここのケーキ、とてもおいしいです。あまりにもおいしいので、このところ、ずっと通わせていただきました。……そこで、不躾だとは思うんですが、もし、ご迷惑でなければ、僕をアルバイトで雇っていただけませんか? どうしたら、こういうケーキが作れるのか、近くで学んでみたいんです。お願いします!」
田崎と名乗った青年は、香奈恵さんにも礼儀正しくお辞儀をした。さすがの香奈恵さんも困った様子を見せる。
「お願いしますと言われても……主人に相談してみないと……」
「いいんじゃないか」
「!? ──あなた!」
タイミングよく、店長が奥の調理場から顔を覗かせた。手には作り立てのケーキが乗っていて、ちょうどカフェに出すところだったらしい。店長は田崎さんを見ると、丸っこい顔をほころばせた。
「僕がこの店の店長です。ケーキは僕が一人で作っているんだけど、これからクリスマスで忙しくなるし、調理場を手伝ってくれる人がいると大助かりだよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、もちろんだとも」
店長の言葉に、田崎さんは目を潤ませるように歓喜した。
「ありがとうございます! 一生懸命働きますので、どうかよろしくお願いします!」
田崎さんは店長に向かって、何度も頭を下げた。よほど嬉しかったらしい。店長が手を差し出すと、ちぎれんばかりの勢いで握手をしていた。
私はといえば、あまりにもトントン拍子に話が進んでいったので、文字通り口を開けて唖然としていた。だって、こんなことってアリ?
そんな私の背中を香奈恵さんがチョンチョンと指で突いてきた。
「まだまだマリナちゃんにもチャンスがあるかもよ?」
「か、香奈恵さん!」
というわけで、田崎さんがアルバイトとして加わることになった。