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木暮は荒い息をつきながら、自分の手を見つめた。先程までの緑色の剛毛に覆われた手ではない。いつもの自分の手だ。それにホッとし、川の水面に自分を覗き込んだ。おびえた表情の自分が、川の流れに歪みながら映っている。今までのは悪夢だったのだろうか。現実と幻の区別がつかず、木暮は自分の体を抱くようにして震えた。
ここは木暮が住んでいるアパートから少し離れたところにある河川敷の橋のたもとだった。子供の頃から、何かイヤなことがあると、よくここへ来て悲しみを紛らわせたものである。今も気がつけば、ここへ足が向いていた。
「ボクは……どうしちゃったんだ……?」
昨日からの出来事を思い出し、木暮はおびえた。いや、正しくは一昨日からである。坂田たち空手部の連中に捕まり、凄惨なリンチを受けた、あのときから。
気絶した木暮が意識を取り戻すと、そこは学校の保健室だった。どうやら何者かによって運ばれたらしい。体中が痛み、すぐに起きあがることは出来なかった。やがて、そこへやって来たのは、朝礼で新任のカウンセラーだと挨拶した毒島カレンだった。
カレンは起き上がれぬ木暮に無理をしないよう言いながら、色々と質問してきた。どうして、こんなケガをしたのか。なぜ、クラスメイトたちからいじめられているのか。カレンは赴任してきたばかりだというのに、まるで木暮のすべてを知っているかのようだった。
木暮は話した。自分のことを。今までのことを。
木暮の父は、幼い頃に亡くなった。当時はまだ三歳だったため、アルバムでしか父の顔を知らない。他に兄弟もなく、木暮は母子家庭で育った。
その平穏な生活が破られたのは、あの男がやって来てからだ。母の話では、かつて父の友人であり、母の知り合いでもあったと言う。ある日、フラリとやって来たその男は、自然に居着くようになった。
男は仕事もせず、昼間から酒を飲んだり、さもなくば鼾をかいて寝ていた。母は父が亡くなってからの生活を支えるため、パートに出ていたので、どうしても木暮は男と一緒にアパートにいることが多かった。
見知らぬ男がずっと家庭にいるというのは不自然なものだ。木暮は男に馴染むことが出来なかった。男もまた、そんな木暮を侮蔑のこもった目で見つめた。
酒を飲む以外、何もすることがない男が、木暮をいびるようになったのは、小学校に入学した頃である。一向に打ち解けようとしない木暮を小突き、大した理由もなく足蹴にした。タバコの火を腕に押しつけられたりもした。ガラス製の灰皿や、空になった酒瓶が飛んできたこともある。しかし、木暮は我慢し続けた。なぜなら、男は死んだ父の友人であり、母の知り合いだったからだ。こんなことを母が知ったら、どんなに悲しむだろう。木暮は幼いながらも、そんなことを考えて、絶対に母には喋らなかった。
だが、半年ほどしたある日、体調不良でパートを早引けしてきた母が、その虐待の現場を目撃した。母は男に暴力をやめるよう訴えたが、逆上した男に殴られた。木暮はその光景を今でも忘れられない。髪をつかんで引きずり回され、鼻血が出るまで暴行を受けた母。それを見ながら、部屋の隅にうずくまり、何もできないでいる自分。男が財布をひったくるようにして酒を買いに出ていった後、母は木暮を抱きしめながら、涙声で謝っていた。ごめんね、ごめんね、と。
あの日から、木暮はなおさら男の暴力に耐えるようになった。母に心配をかけないために。そして、いつか大きくなったら追い出してやると誓いながら。何年も何年も、声を押し殺して、そのときをひたすら待った。
だが、木暮はいつの間にか、知らず知らずのうちに周囲を警戒する癖を持つようになっていた。男の鉄拳がいつ飛んでくるかも分からない環境で暮らしてきたせいだ。だが、それは知らない者たちには、常におどおどしたような態度で、他人との関わり避けているように見えた。それが小学校の高学年くらいになってから、一部のクラスメイトたちの気に障るようになっていったのである。多感な少年少女たちが、そこからいじめに進展させるのは早い。たちまち、木暮は学校でも孤立していった。
家では酒乱の男、そして学校では心ないクラスメイトたち。木暮に安息の場所はなかった。
──否。
たった一カ所だけ、逃げ込む場所があった。それは木暮の心の中だ。どんなに肉体を痛めつけられても、誰も木暮の心までは傷つけることが出来ない。そして、その心の中で作り上げた世界の中では、木暮は何をしても構わないのだった。自分に暴力を振るう男に何百回と包丁を突き刺し、クラスメイトたちを燃えさかる炎の中に突き落とす。当然のことながら、そんなことをしても、誰も責める者はいない。非力な自分が無敵の支配者となれる世界。木暮の安住の地は、自らの心の中だけに存在した。木暮への虐待やいじめがエスカレートすればするほど、なおさら自分の殻に閉じこもるようになっていった。
木暮はそんな自分のことを、すらすらとカレンに答えていた。カレンはときに優しく微笑みうなずきながら、ときに木暮の怒りを自分の怒りとして、ずっと聞き入っていた。
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