[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
席を立った薫はトイレに行かず、洗面台の蛇口をひねった。勢いが良すぎて水がしぶき、薫の着ているノースリーブが濡れてしまう。それでも構わず、薫は水を出し続けた。
「はあっ……」
思わず漏れるため息。怖々、鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。
いつもの快活さはどこへやら、そこには薫が嫌いな顔があった。暗く沈んだ憂いの表情。それは鮮やかに五行型を生けて見せた、つかさへの嫉妬心が作り出したものだ。
つかさは心根が素直なせいか、昔から生け花を得意としていた。別につばきが教え込んだということはない。つかさが教え込まれたのは、祖父の古武道の方だ。華道は、ただ祖母がやることを見よう見まねで覚えたようだった。
初めてつかさの生けた花を見たのは薫が中学生のとき。それはつかさの両親が交通事故でなくなり、祖父母夫妻の家に引き取られた頃だ。
生け花などまったく経験がないと言っていたつかさだが、それは薫が見ても見事な出来映えだった。つばきはあからさまに孫を褒めるようなことはしなかったが、やはり祖母としてみれば、つかさの見事な腕前を目の当たりにして嬉しくないはずがない。
一方で、小学生の頃から習っている薫は一向に上達しない有様だった。それまでは剣道の方ばかりに力を入れて、華道などはどうでもいいと思っていたのだが、つかさの生け花を見て以来、同い年ということもあり、知らず知らずのうちに劣等感が募った。こっちは女(一応)、向こうは男(多分)というのもある。もし、それでつかさを嫌いになれて、華道を辞めることが出来たら、どんなに楽だっただろう。
だが、薫は何でも努力次第で克服できるという信念を持っていた。同じ頃に始めた剣道はそうやって上達し、今では都内の高校で並ぶ者がいないほどになっている。それだけ人一倍の稽古を積んだ。勉強だって、やった分だけ成績が上がった。だから、華道もいつかは不器用さを克服し、うまく生けられるようになると信じて、ここまでやってきたのである。
しかし、現実はそうはうまく行かないものだ。つかさの生け花を見てから一念発起して三年、それなのに薫の華道の腕前はまったく進歩がない。別に薫は完璧主義者ではなかったが、こうも見事に出来ないと、余計、意固地になりたくなる。
だからといって、つかさを嫌いにもなれなかった。男としては優柔不断で意志薄弱、そこにつけ込まれて、クラスメイトたちからからかいの対象になっていることは一緒にいる薫をイライラさせるのだが、最近の高校生にしては貴重なくらいピュアな心を持っている。それは薫が触れていて安らぐものだ。つかさには失って欲しくないものだし、薫も失いたくはなかった。
それに、つかさは自分が華道を得意としていても、それを鼻にかけるような男ではなかった。むしろ、本人にはその自覚がない。師匠の孫だから周囲にちやほやされている、くらいの意識しかないのだ。だから、薫が一方的に腹を立てるのもバカバカしい話と言えた。
それでも、ときどきこうしてつかさの才能に嫉妬する自分がいた。友達のつもりでいるのに。つかさは薫に対して、そんな感情を持ったことはないだろう。鏡の向こうの自分が、とてもイヤな人間に見えてくる。薫は両手で水をすくうと、荒っぽく顔を洗った。いつもの自分を取り戻そうとするかのように。
「はい」
顔を上げると、耳の後ろからタオルが差し出された。つかさだ。薫は受け取ると、濡れた顔を拭いた。
「気にすることはないよ。薫は薫なんだから」
慰めのつもりなのか、つかさは薫の背中に話しかけた。薫は拭き終わった顔をなおも拭くふりをする。
「別に気にしてないわよ。いつものことだもの」
さりげなく、極めて普通に。
「そう? ならいいんだけど」
つかさのホッとしたような声。傷ついた。
「ありがと」
薫は無造作に、タオルをつかさに返した。そのとき、つかさの目と目が合う。上目遣いの人懐っこい仔犬のような目。その目に見つめられ、薫はひるむ。
「な、何よぉ?」
「ううん。たださ……」
「?」
「薫って化粧っ気ゼロだから、ざぶざぶ顔が洗えるんだなあって感心しちゃって……」
かちん!(知〜らないっと)
「な、ななな、何よ、それは! 私には女っ気が全然ないって言いたいワケ!? えっ!? このぉ、可愛い顔して憎らしいこと言って! ほら、どうなのよ!? 正直に言いなさい!」
薫は振り向きざま、つかさの頬を両手でつねるようにして問いただした。つかさの頬がびよよぉんと伸びる。
「ひやい、ひやい! ひょこまれひっれなひひゃん!(訳:痛い、痛い! そこまで言ってないじゃん!)」
あまりの痛さに涙を浮かべながら、つかさは弁解した。
「じゃあ、どういう意味よ!?」
ぎゅうううううっ!
さらにつねる指に力を込めながら薫は迫る。
「ひゅまり……ひょれひゃ……(訳:つまり……それは……)」
そこへ、つばきが廊下をやって来た。それに気づいた薫は、慌ててつかさの頬を解放する。
つかさはおたふく風邪のように腫れ上がった頬をさすりながら、祖母を振り返った。
「薫さん」
「はい!」
つばきに名前を呼ばれ、薫は姿勢を正した。直立不動。呆気に取られるのはつかさだ。
薫はつばきに何か言われるのではないかと緊張した。今、つかさに虐待を加えていたことだろうか(おいおい)。それとも先程の生け花のことか。どちらにせよ、叱られるのではないかと思った。
つばきはしゃんとした姿勢で、真っ直ぐに薫を見た。
「トイレ、よろしいかしら?」
「へ?」
思いもかけなかった言葉に、薫は間の抜けた返事をした。そして、自分がトイレの入口に立ち塞がっていたと気づく。
薫は慌てて廊下の端に寄った。
「ど、どうぞ!」
「ありがとう」
つばきは軽く会釈すると、薫の前を通って、トイレに入っていった。つばきの姿が見えなくなってから、薫は大きく息を吐き出す。ホッと胸を撫で下ろしながら、和室の方へ戻ろうとした。
その後ろからつかさが着いてくる。
「薫ってさ、昔からウチのばあちゃん、苦手そうにしているよね?」
図星を突かれた。
「何か分かんないけど、先生の前だと緊張しちゃうのよね。先生、私のことをあまり好きじゃないみたいだし」
「そう? 気のせいじゃない?」
深刻な薫に向かって、つかさは軽く言う。
「そうかな。絶対に気のせいじゃないって思うけど」
それは薫が昔から感じてきたことだった。
華道の師匠としての厳しさはもちろんだが、つかさに用事があって武藤家に出入りしているときも、つばきの態度は決して砕けたものにはならない。もちろん、師匠と弟子の関係があるからだろうが、薫の場合、孫のクラスメイトという部分もある。その辺で、もう少し親しげに接してくれてもいいいじゃないか、と思う薫であった。
(まるで気にくわない嫁を睨む姑みたいだわ)
何気なくそんなことを考えた薫は、ハッとして後ろのつかさを振り返った。
(ま、まさか! ひょっとして先生、私とつかさのことを誤解しているの? そりゃあ、私はつかさと親しくしているし、家にもちょくちょくお邪魔させてもらっているけど、私とつかさがそんな関係になるわけないじゃない! つかさは友達よ! クラスメイトよ! ちょっと放っておけない弟みたいなものよ! それを付き合っているなんて思われてたら……ヤダ! 冗談じゃないわ! 私はつかさのことを男として意識したことなんてないんだからぁ!)
「──薫? かおる!」
「え?」
つかさに呼ばれて、ようやく薫は我に返った。怪訝そうなつかさの顔を見て、薫は顔を真っ赤にさせる。自分の心の内を覗かれたような気がしてバツが悪い。
「な、何?」
つかさを意識しないように努めながら、薫は問い返した。
つかさは薫の様子のおかしさに気づきながらも、表情を柔和にさせて言った。
「このあと、何か用事ある?」
「用事? 別にないけど」
取り繕いながら薫は答えた。
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれない?」
「え? ええーっ!?」
薫はオーバーなリアクションで驚き、声を上げた。
その耳元には、つかさの「付き合ってくれない?」という言葉がこだまし、意識が飛んだ。
[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]