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WILD BLOOD

第10話 KILL BLOOD

−3−

「何なのよぉ、まったく!」
 ホームレスの男に追い返されて、詩織は怒りがおさまらなかった。どちらが正しいかは自明の理だ。今すぐにでも引き返しそうな剣幕で、取り押さえている影人の腕を振りほどこうとした。
「早乙女さん、ダメですよ」
 影人はひと苦労しながら、ようやく詩織を河川敷の歩道まで引きずり上げた。
 すると、そこに立つ一人の女性。歳は二十代半ばから後半くらいだろう。なかなかの美人であるが、少し化粧が濃く、着ているものもそれなりに高価なのに、いささかケバケバしく思えた。
 影人と詩織の二人が、その女性を見咎めたのは、水商売っぽい外見だけでなく、橋のたもとでリアカーを引き始めたホームレスへ、一心に視線を注いでいたからだ。そばにいる影人たちにさえ気づかないくらいに。
 ホームレスの中年男性と水商売風の若い女。一見したところでは、まったく接点が結びつかない。
 影人たちは奇妙に思いながらも、その場を立ち去ろうとした。すると、いきなり女の方から声をかけてきた。
「あの……つかぬことをお伺いしますが、あそこにいる男性のことをよくご存じなんですか?」
「は?」
 思いもかけぬ質問に、影人は間の抜けた顔で問い返した。ここでようやく、詩織は影人の腕を振りきる。
「いえ……私たちは区役所の者でして、あの方に路上生活を辞めるよう勧告しに来ただけなんですけど」
「そうですか」
 詩織の言葉を聞いた女は、少しガッカリしたような顔をした。
「そういう、あなたは?」
 今度は反対に詩織が尋ねた。ところが女は急に表情を固くさせる。どうやら都合が悪いらしい。
「いや、別に……失礼しました」
 女は二人から顔を背けるようにして、その場から立ち去っていった。腑に落ちない態度に、影人と詩織は顔を見合わせる。
 詩織は、橋下のホームレスと水商売風女性の背中を交互に見やると、ひとつの決断を下した。
「あの二人、何か関係がありそうね」
「以前、夫婦だったとか? それとも現在進行形の恋人同士?」
 影人がトンチンカンなことを言った。詩織は即座に、
「歳の差がありすぎです!」
 と突っ込む。
 影人は首を傾げた。
「恋愛に歳の差は関係ないんじゃ……」
「とにかく、彼女の後を追ってみましょう!」
「えーっ!?」
 詩織の決断に、影人は目を丸くした。当然、異議を申し立てる。
「何で、そんな探偵みたいなマネをしなきゃいけないんですか?」
「彼女、あのホームレスの身内って可能性が高いじゃないですか! 立ち退きの件、家族からも説得してもらえれば、了承してくれるかもしれませんし」
「でも……」
「仙月さん、これも業務の一環です!」
「ホントかなぁ……」
 鼻息も荒く、すっかりその気の詩織に、影人は抗い切れなかった。
 かくして、影人と詩織は女を尾行することになった。
 女は、二人につけられていることに気づかず、そのまま近くの駅から地下鉄へ乗り込んだ。二人もあまり近づきすぎず、あまり離れすぎずの距離を保ちながら、同乗する。地下鉄は新宿方面に向かっていた。
 女は新宿駅で下車した。影人たちも慌てて降りる。駅のプラットホームは、まだ帰りのラッシュアワーより遙かに前だというのに、行き交う人々でごった返し、思わず女の姿を見失いそうになった。人混みを掻き分けながら、何とか追いかける。女は出口への階段を急ぐように駆け上がっていた。
 ようやく人の波から脱出に成功し、影人たちは地上へ出た。しかし、平日だというのに新宿通りも人通りは盛んだ。女がどこへ行ったのか分からなくなる。二人は迷った。
「ああ、もお、せっかくここまで来たのに!」
「早乙女さん、あっちへ行ってみましょう」
 影人が指差したのは、駅からすぐ近くにある歌舞伎町だった。確かに、あの水商売風の格好からすれば、その可能性は高いと思うが。
 詩織が否を言う間もなかった。影人はどんどん歌舞伎町の方へと行ってしまう。詩織は背の高い影人の背中を追いかけた。
 影人の推理通り、女は歌舞伎町へ向かっていた。信号待ちの交差点で見つける。影人は詩織に得意満面の笑みを見せた。
 歌舞伎町へと足を踏み込んだ女は、まったく遅滞なく歩き、やがて一軒の店の中に入っていった。影人らは、その店の看板を読む。
『ランジェリー・パブ《パフューム》』
「どうやら、ここにお勤めみたいですね」
 影人はあっけらかんと言ってのけた。
 だが、これに赤面したのは詩織だ。ハッキリ言って、こういうことに免疫がないタイプである。
「な、な、ななななな、なんて……」
 何かを言おうとしたらしいが、もはや言葉にならない。
 そこへこの店の客引きらしいパンチパーマの男が寄ってきた。
「よっ、お兄さん、寄ってかない? 可愛いコ、いっぱいるよ! 今ならちょうどサービスタイムだ! 指名料が半額になるよ!」
 客引きはぼーっとした影人を絶好のカモだと思ったのだろう。ところが隣に詩織がいるのを見て、眉をひそめた。
「何だ、彼女同伴かよ」
 その口調には、明らかに「客じゃないならとっとと失せな」という態度がにじみ出ていた。
 ところが影人は、
「あのー、今ここに女の人が入っていったでしょ?」
 と、平然としたものだった。
「ああん?」
 臆面もなく尋ねる影人に、客引きは眉間にしわを寄せて、強面を作った。詩織は影人の袖を引っ張って、やめるよう促す。しかし、鈍感な影人はやめなかった。
「だから、ここに今、女の人が──」
「おい、兄ちゃん! 店の女の子にちょっかい出す気かいな!?」
 なぜか客引きの言葉は関西弁に変わっていた。唇は尖り、むんずと、影人のネクタイをつかむ。
「いや、僕らはただ、ここへ入っていった女の人に用事があって──」
「じゃかあしい! 最近、多いんじゃ! お前みたいなストーカー男! 店でのサービスをホンマもんの好意だと勘違いしおってからに! 店の女の子に指一本触れてみい! ケツの穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタ言わすぞ、ボケ!」
 凄みを利かせた客引きは、今にも影人を殴りそうだった。詩織は止めようとする。
「ら、乱暴はやめてください!」
 客引きは影人から詩織に視線を移した。
「何だ、姉ちゃん。ウチの店で働きたいのか? いいぜ、姉ちゃんなら、いつでもウェルカムさ!」
 詩織の豊満なバストへ、客引きは遠慮なく視線を注いだ。詩織はおぞましさを感じて、思わず胸を腕で隠しながら、後ずさる。
 そのとき、影人は眼鏡を外した。そして、客引きの顔を見つめる。すると、急に客引きの顔が怒りから恐怖へと変わっていった。
 その様子を詩織は影人の後ろから見ていた。一体、何が起こったのか。とうとう客引きの手から、つかんでいた影人のネクタイがすり抜けた。
 眼鏡をかけ直した影人は、くるりと詩織を振り返った。
「話はつきました。さあ、中へ入りましょう」
 にこやかに影人は言った。
「話はついたって……ちょっと!?」
 影人が客引きに何かを言ったようには聞こえなかった。だが、客引きはその場に凍りついたまま、中へ入ろうとする二人を止めようともしない。
 いざ、ランジェリー・パブ《パフューム》へ。詩織はゴクンと唾を飲み込んだ。
「ほ、本当に入る気ですか?」
「あのひとを尾行しようと言い出したのは早乙女さんじゃないですか」
「そ、そりゃ、そうですけど……」
 だからといって、さすがにランジェリー・パブは。そもそも、うら若き女性が入店するようなところじゃない。
「これも業務の一環ですよ」
 自分の言葉をそっくりそのまま返され、詩織は影人に従うしかなかった。影人の背中で小さくなりながら中へと入る。
 店内は悩ましいムーディーな音楽がかかっており、ピンク色の照明が灯されていた。全体的には暗く、ボックス席には下着姿の女性たちが男性客──まだ昼日中だというのに──にお酒を注いだり、耳元で何かを囁いている。身を寄せて蠢いている男女の様子が、詩織には、とても淫靡な世界に思えた。
 影人は案内係が声をかけてくるのも無視し、そのまま店の奥へ一直線に進んだ。カーテンをくぐると、一転して普通の蛍光灯が点いた廊下へ出る。お店の舞台裏、スタッフたちのプライベート・ルームだ。詩織は少しホッとする。影人は、そのうちのひとつのドアをノックして開けた。
 そこはホステスたちのメイク室のようだった。いくつもの鏡台が並び、色とりどりの下着がハンガーにかかっている。中には、まだ私服から着替えていない一人の女性がタバコをふかしていた。
「あら?」
「すみません、こんなところまで押し掛けてしまって」
 影人はぺこりと頭を下げた。そして、一度はホームレスに捨てられた名刺を差し出す。それを受け取った女は、タバコの煙を吐き出した。
「ホントに区役所の人たちだったんだ」
 店にいるせいか、女の口調は先程よりも砕けたものになっていた。
「失礼だとは思ったんですが、あなたと……そのー、橋の下で生活してらっしゃった方と何か関係があるのではと思い、ちょっとお話を伺いたかったのです」
 異世界のような店内と違い、より日常的な雰囲気がするメイク室の中ということもあって、詩織はようやく本来の調子を取り戻した。それにここまで来たのなら、腹をくくらねばならない。
 女は灰皿にタバコを押しつけた。
「そう、しょうがないわね。どうせ、調べれば分かっちゃうことだから教えてあげるわ」
 女は気だるそうな表情で言った。影人と詩織はかしこまる。
「あの人はね──あのホームレスは、十三年前に私と母の前から姿を消した父なの」

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