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「こんなものしかないけど、いいかしら?」
女はメイク室の片隅にある冷蔵庫の中から、ストックしてあった缶入りの冷えた緑茶を出してきて、影人と詩織の前に置いた。自分は飲みかけの同じものを口にしながら、新しいタバコに火をつける。煙が吐かれると、タバコを吸わない影人たちは遠慮がちに顔をしかめ、喉をいがらせた。
「どこから話せばいいかしら? ──そうね、まずは名前からにしましょうか。私は降旗渚<ふるはた・なぎさ>。父の名は降旗源六<ふるはた・げんろく>。私たちは日本海側にある小さな漁村の出身で、父はそこで漁師をしていたわ」
タバコを吹かしながら語る渚の目は、どこか遠いものになっていた。
「あれは私が十歳の誕生日を迎えて間もない、大吹雪があった一月のこと。父と船員六名を乗せた船が不審船と衝突し、沈没してしまったの。残念ながら、助かったのは父だけだったわ」
「不審船?」
影人が眉をひそめた。
「ほら、今でもときどきニュースになるじゃない? 密漁目的の船が日本の海域に侵犯して来るって話。でも、当時はどこの船かも分からず、しかも、そのまま逃げてしまったので、事故はうやむやになってしまったのよ。結局、天候が荒れることを承知で漁へ出た、父の責任ということになってね」
「ひどい話だわ」
詩織は本気で腹を立てた。確かに渚の父、源六の判断は誤ったものだったかもしれない。しかし、衝突した船が船員たちをすぐに救助していれば、もっと犠牲者を出さずに済んだかもしれない。すべての責任が渚の父にあるとは思えなかった。
「しょうがないわ。確かに、父が漁を中止にしていたら、あんな事故は起きなかったんだもの。父もそれを悔いていたようで、残された船員のご家族に精一杯の罪滅ぼしをした。おかげでウチは破産してしまったけどね」
「………」
「それでも父は漁村の人たちから村八分にされた。漁に出ることも出来ず、新しい仕事先も見つからない。昼間から酒を飲んで、酔いつぶれる毎日が続いたわ。私も学校でよくいじめられたっけ」
渚は笑って言った。しかし、それは乾いたものでしかない。きっと、詩織が想像もできないほど、つらい目に遭ってきたのだろう。
話を聞いているうちに、詩織は切なくなった。たった一度の不幸が、多くの不幸を呼ぶ不条理な連鎖。それを彼女は未だ断ち切れていないのだ。
「やがて、父は私と母の前から姿を消したわ。何の置き手紙もなしに、ね。父のつらさは分かっているつもりだった。でも、父が私たちまで捨てるとは思わなかった……」
渚は鼻をすすった。目を擦ったのは、父を思い出したからか、それともタバコの煙がしみたからか。
「母は一人で私を育ててくれたわ。でも、その母も、私が高校を卒業する前に過労が祟って他界。身寄りがなくなった私は、高校卒業と同時に東京へ出てきたの」
渚は話しているうちに落ちそうになったタバコの灰を指で弾くと、緑茶で口を湿らせた。そして、再びタバコをくわえる。
「東京へ行けば、何かが変わると思っていた。偏見の目で見られることもなく、少しはマシな生活が待っているだろうって。でも、それは甘い考えだった。母との苦しい生活を支えるためにバイトばかりしていた私は、これといって立派な学歴があるわけでもなく、次々に職を転々とするはめになったわ。仕事先でイヤな目に遭ったこともある。気がついたら、歌舞伎町のこんないかがわしい店に転がり込んで……。あー、何やってんだろ、私。結局、何も変わらなかったじゃない」
最後は自嘲的に渚は呟いた。苛立たしく、吸い終わったタバコを灰皿にすりつぶす。
「そんなときよ。ある日、偶然、こっちへ出てきていた知り合いに再会したのは。そうしたら、たまたま父の話になって、あの橋の近くでそれらしいホームレスを見かけたって聞いたの。ひょっとしたら、行方不明になった父じゃないかって」
「それで今日、確かめにいらっしゃったわけですね?」
影人が黒縁の眼鏡を指で抑えながら言った。渚はうなずきかけたが、なぜかそれをためらう。
「私は……私は別に、父に今さら親らしいことを望んでいるわけではないんです……ないはずなんです! 今頃、父の消息が分かったって……でも……」
渚はとうとう堪えきれず、涙を流した。嗚咽が漏れそうになるのを手で覆い隠す。たまらず、同情した詩織は渚のそばに寄り添い、その背をさすった。
十三年。渚はそのつらい年月を何とか埋めたかったに違いない。身体を折る渚を詩織は優しく抱きしめた。
「会いに行きましょう」
突然、泣きじゃくる渚に詩織は言った。渚の肩がピクリと震える。詩織は渚の顔を上げさせた。
「会いに行きましょうよ、お父さんに。あなたの想いをお父さんにぶつけましょう!」
「ちょ、ちょっと、早乙女さん?」
一番避けたかった展開になりそうな気がして、影人はおずおずと声をかけた。だが、詩織はすでに影人が一緒にいることも忘れて、渚の手を自分の両手で包み込み、うんうんとうなずいている。影人は、あいたー、と額を叩いた。これはまずい。
「善は急げ、です! さあ、一緒にあの橋へ行きましょう! 心配いりません! 私がついています!」
何を根拠に言うのか、影人は頭痛を覚えた。当然、ここまで来て知らん顔もできず、影人も駆り出されるに違いない。
「──仙月さん!」
「は、はい?」
「タクシーを拾ってきてください!」
案の定だ、と影人は呻いた。
三人があの橋へ戻ってきたのは、すでに夕暮れを迎えた頃だった。
ちゃっかり領収書を切ってタクシーを降りると、詩織は渚の肩を励ますように後ろから叩いた。
「大丈夫! 勇気を持って!」
その横では影人が気づかれないようにため息をついていた。
詩織に促され、渚は意を決したように一歩を踏み出した。河川敷の土手を下り、橋のたもとに作られたブルーシートのテントへ近づく。その近くには、先程、源六が引いていたリアカーが置かれていた。どうやら、当人は中にいるようである。
渚は入口の前に立った。しかし、なかなか声をかけられない。
逡巡している彼女に代わり、詩織が口を開いた。
「降旗さん、いらっしゃいますか!?」
中で動く気配があった。苛ついた雰囲気が伝わってくる。無造作に入口のブルーシートがめくられた。
「何だ、またアンタらか!? しつこいな!」
源六は小汚い顔を入口から突き出した。不機嫌そうな態度を隠そうともしない。
その目の前に、先程はいなかった渚が立っていた。
「んぁ?」
源六は成長した娘の姿を見ても、すぐには気づかなかった。うろんげな眼差しを渚に注ぐ。
しかし、渚にはこのみすぼらしいホームレスが、十三年前に蒸発した父、源六であると即座に分かった。言葉よりも先に涙がこぼれてくる。
「お父さん……」
源六の顔がハッとなった。やはり父娘。十三年ぶりでも、娘の顔を見間違うわけがなかった。その目が大きく見開かれる。
「お父さん」
渚は、もう一度、父を呼んだ。源六は顔を背けた。
「ば、バカ言うな! 人違いだ! オレはおめえの親父なんかじゃねえ!」
「降旗さん!」
否定する源六に声を荒げたは詩織だ。支えるように、震える渚の肩をしっかりとつかんでいる。
「せっかく娘さんが会いに来たんですよ! どうして、そんなひどいことを言うんですか!?」
「や、やかましい! 人違いだから人違いだって言っただけだ! それの何がいけない!?」
「十三年も娘さんを放っておいて! それが親として久しぶりにかけてあげる言葉ですか!? 少しは娘さんの話を聞いてあげてください! ちゃんと大人になった娘さんの顔を見てやってください!」
だが、源六は横を向いたまま、渚を正視しようとはしなかった。元漁師の荒れた手は、ギュッと拳を握っている。心なしか震えているように見えた。
「お父さん……」
渚の三度目の呼びかけに、源六は背中を向けて、テントの中に戻ろうとした。
「帰れ! お前たちと話すことなんか何もない! 二度と顔を見せるな!」
源六はそう怒鳴ると、入口をくぐろうとした。そんな父の背に、渚は涙声で伝える。
「お母さん、死んだのよ! 五年前に! お父さんがいなくなってから、一人で私を育ててくれて! お母さんが死んだのは、お父さんのせいよ!」
そのとき、影人だけは見た。ブルーシートをつかんだ源六の手に力が入るのを。
「……言いたいことはそれだけか。気が済んだんなら、とっとと帰ってくれ」
源六はテントの中に姿を消した。
鍵も何もない、一枚のブルーシートが扉代わりの入口だ。中へ押し入ろうと思えば簡単に出来た。
しかし、三人はそこから一歩も動けなかった。源六は渚の言葉すら聞こうとしない。これ以上、何を言ってもムダに思えた。
渚は黙って、テントから離れた。詩織も消沈した様子で、その後ろを追いかける。
影人はブルーシートの入口を眺めながらため息をつくと、頭を掻きながら二人と同じように、夕暮れに染まる河川敷から去った。
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