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いつも見る悪夢がある。
暗い夜の海に投げ出され、海面に首だけを出しながら、必死に船員たちの名を叫ぶ夢だ。真冬の大吹雪の晩。海水温度は氷のように冷たく、アッという間に体温が奪い去られていった。
十三年前のあの日。
降旗源六には忘れたくても忘れられない光景だった。
沖合の暗い海で見えるものは、吹きつけてくる雪と遠ざかっていく船のシルエットだけ。その船は、一切、明かりを灯しておらず、船名はもちろんのこと、どんな特長があるのかすらも分からない。ただ、衝突した源六の船が沈んだことには気づいたようで、船上の連中が日本語ではない言葉で騒いでいた。
しかし、衝突した船はまったく引き返してくる素振りを見せなかった。源六は両腕を振って気づいてもらおうとしたが、この暗さで発見できないのか、それとも最初から救助する気などなかったのか。船影はどんどん小さくなっていった。
やがて、源六は大海原に取り残されたことに茫然とした。救難信号を発する間もなく海に放り出されたのである。すぐに助けが来るとは思えなかった。
加えて、この冬の寒さだ。源六は漁師なので泳ぎには自信があるが、冷たい海水は体の芯まで凍りつかせ、手足の動きを鈍らせる。
とにかく仲間を捜そうと思った。源六の他、六人の船員たち。衝突事故当時、ちょうど就寝時間で、操舵を担当していた源六以外は仮眠を取っていたところだったのが気がかりだが、彼らも海の男である以上、そう簡単に溺れないでいてくれるだろうという淡い期待があった。
源六は声を限りに叫んだ。しかし、荒波の日本海に身体は揉まれ、聞こえるものといえば、風を切る猛吹雪の音と唸るような海鳴りだけ。仲間からの返答はまったくなかった。
それでも諦めず、源六は仲間の名を一人一人呼びながら、目を皿のようにして、海面に仲間の姿を捜した。顔に雪と波しぶきがかかり、口の中に海水が入ってくる。動かしていた手足には、感覚もなくなっていった。
誰もいなかった。源六は絶望感に打ちひしがれる。すべては漁に出ようと言い出した自分の責任だ。荒れた海にさえ出なければ、こんなことにはならなかったはずだ。
仲間を呼ぶ声は、最後には弱々しいものになり、涙が含まれるようになった。仲間が助からないのなら、自分も運命を共にしようか。妻や一人娘の渚の顔が浮かんだが、それ以上に船員たちの家族に申し訳なかった。
そのときだ。海面に浮かんでいた源六の身体が、突然、沈んだ。泳ぎをやめたからではない。何かに足を引っ張られたからだ。
源六はもがいた。このまま死んでしまおうかと思っていたにも関わらず、反射的に生存本能が働く。源六は懸命に両手で水を掻き、足を蹴った。
しかし、源六を海の底へ引きずり込もうとする力は凄まじかった。グングン下へと引っ張られる。必死の抵抗などムダであった。
源六は何が自分の足を引っ張っているのか確かめようとした。暗い海の底を覗き込む。
そのとき、源六は驚きですべての酸素を吐き出してしまった。源六を海底へ沈めようとするもの。それは源六の仲間たち六人であった。
「船長……船長……」
海中だというのに、船員たちが源六を呼ぶ声がなぜかハッキリと聞こえた。その怨念がこもったような、おぞましい声。六人が源六の足を命綱のようにつかんでいる。源六は震え上がった。
「た、たっ、助けてくれ!」
大きな声を出して、源六は目覚めた。勝手に身体が反応して、上半身が起き上がっている。源六は本当に溺れかけたかのように、切迫な呼吸を繰り返した。
ようやく気を落ち着けると、そこが自分の生活しているテントの中だと気づいた。どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。廃品の中から拾ってきた目覚まし時計を見ると、渚たちが帰ってから二時間も経っていないことが分かった。
また、あの悪夢だった。源六は寝汗をびっしょりとかいていることに気づき、のろのろと水を飲みに這い出した。
実際には仲間を捜している間に気を失ってしまい、夢に出てきたような海の中に引きずり込まれる体験はしていなかった。結局、源六だけが捜索に来た海上保安庁に救助されたのだが、あの事故以来、仲間への罪悪感からか同じ夢を何度も見るようになっている。その度に源六は苦しみを覚えた。
どうしてあのとき、仲間たちと一緒に死ねなかったのか。もし、共に死んでいたら、こんな苦しみを味合わずに済んだだろうに。
だが、一方で一人だけ助かったことにホッとしている自分がいた。人間、簡単には死を享受できない。その後、自殺だって出来たのに、こうして生き恥をさらしているのがいい証拠だ。源六はそんな自分がたまらなくイヤだった。
だから逃げた。故郷から。家族から。すべてから。
しかし、渚はそんな自分を捜し出して、会いに来た。十三年ぶりの再会。大きくなっていた。若い頃の妻にどこか面影が似ていると源六は思った。
だけど、今さら父親だと名乗ることははばかられた。妻と娘を置いて家を飛び出し、何もかもを押しつけたのだ。その時点で、夫でもなければ父親でもない。二人にいくらののしられても顔向けなどできるはずもなかった。
渚は妻が五年前に死んだと告げた。断腸の思いが滲む。源六が蒸発してから、きっと妻の苦労は並大抵のものではなかっただろう。結局、自分可愛さのあまり、妻までも傷つける結果になってしまったのだ。源六は自分という人間が許せなくなる。それでも源六は逃避し続けるのだ。これからも、ずっと死ぬまで。
源六は荷物の中から筒状に丸められた一枚の紙を取りだした。もう何度、広げては丸め、しまってきただろう。源六は薄暗いテントの中、大事そうに紙を広げた。
紙は画用紙だった。そして、そこに水性絵の具で描かれた絵。船の上で、ねじり鉢巻き、長靴姿の男が漁をしている場面だった。
これは渚が小学生だったとき、父の日ということで描いた源六の絵だ。いつも漁ばかりで、渚には父親らしいことをあまりしてやれなかった源六だが、この絵をプレゼントされたときは嬉しかった。船には『なぎさ丸』という船名が書かれている。渚が誕生したとき、船も新調して名付けたものだ。船は沈み、家族も失ってしまったが、この絵だけは源六の宝物だった。
「よお、源さん、いるかい?」
外から声がした。源六は慌てて似顔絵をしまうと、入口へ出る。そこには、ひょろりと痩せて、かなり頭の薄くなったオヤジが立っていた。
「おう、彦さんか」
訪ねてきたのは源六と同じホームレス仲間の彦さんだった。本名は知らない。みんな、「彦さん」と呼んでいる。互いに素性を尋ねないことが、ホームレスたちの暗黙の了解となっていた。誰しも脛に疵<きず>持つ身だからだ。手には膨らんだポリ袋を下げている。
「久しぶりに一緒にやろうと思ってね」
そう言って、彦さんは手にしていたポリ袋を掲げた。中身は酒とつまみに違いない。
「入んなよ」
源六は彦さんを招き入れた。そして、ランプに火を灯す。もう、すっかり夜だ。
彦さんは遠慮なくあぐらをかくと、袋からカップ酒やつまみの缶詰を取りだした。源六も漁師時代からアルコールには目がないが、彦さんはその上を行く無類の酒好きだ。大体、生活費のほとんどが酒に化けるという。
二人はカップ酒の蓋を開けると、ぐびりと喉へ流し込んだ。
「ぷはーぁ、うまいなあ!」
元々、酒臭い彦さんは、飲んで一層、アルコールの臭いをプンプンさせた。頭蓋骨に皮だけが貼りついたような顔に朱が差してくる。
ところが一方の源六は、大好きな酒を口にしても陰気に沈んでいた。
「どうした、源さん? 顔色がすぐれねえみたいだが」
いつもの飲みっぷりじゃないことに気づいた彦さんは、源六を気にかけるように言った。源六は脂まみれの焼き鶏の缶詰をつまみながら、弱々しい笑みを見せる。
「そうかい?」
娘が訪ねてきたことを彦さんに話すべきか、源六は迷った。家族の話を好まないホームレスは多い。源六のように、故郷や家族を捨てて、今の生活をしている者がほとんどだからだ。
「実は昼間、区役所の連中が来てね」
源六は別の話題でお茶を濁した。すると彦さんは手にしていたカップ酒を降ろして、身を乗り出す。
「ここを出てけって話か?」
源六はうなずいた。彦さんは大仰に仰け反ると、再びカップ酒を手にし、グイッと中身を空けた。
「まったく、お役所の連中ってのは、どうしてこう弱いモンをいじめたがるのかね!? こっから追い出して、オレたちにどこで暮らせって言うんだ!?」
「ああ。当面は施設に、なんてこと言っていたが、そこだって期間限定なんだ。それが過ぎちまえば、またホームレスへ逆戻りさ」
うまく別の話題に振り返ることが出来て、次第に源六の舌もなめらかになってきた。
「どうせ、あいつらは、オレたちホームレスの苦労なんか知っちゃいないんだ」
源六も彦さんも、アルミ缶の回収などで生計を立てている。月に一万五千円ぽっちの稼ぎだ。しかし、これには縄張りがあって、へたなところへ回収には行けない。そんなことをすれば、すぐに地元ホームレスと大ゲンカだ。だから、もし、源六たちがホームレス生活から離れれば、すぐ誰かに縄張りを取られてしまい、戻ってくることはできなくなる。まさに死活問題だった。
「源さん、騙されちゃなんねえぞ。最近、お役所の連中も口がうまくなったみてえで、オレの仲間でも次々といなくなっている者が多いんだ」
「本当か?」
それは源六にとって初耳だった。彦さんはなぜか声をひそめる。
「本当だとも。この一ヶ月の間に、この河川敷沿いのホームレスの数が少なくなってんのさ。昨日までいたヤツが、ある日、突然いなくなってよ。あれはきっと、お役所の連中が何かを吹き込んでいるに違いねえ」
「中には急に里心がついた者もいるんじゃないか?」
彦さんの話がにわかには信じられず、源六は自分の考えを口にした。すると彦さんは鼻で笑う。
「そんなの、ホームレスの中にいるわけないだろ。オレたちは故郷を捨て、家族を捨て、すべてのしがらみを捨てて、こんな生活をしているんだ。路上生活を始めたばかりのヤツならともかく、今さら故郷へ帰ろうなんて誰も思いやしないって」
彦さんに断じられ、源六は何も言えなくなった。
それからしばらく二人は飲み、たわいもない話をした。二時間くらいしたところで彦さんが中座する。
「ちょっくら小便」
彦さんは少しふらつく足取りで、源六のテントから外へ出ていった。
河川敷近くに公衆トイレはあるが、小便くらいなら川でしてしまった方が早い。彦さんは真っ直ぐ、川へ歩いていった。
ズボンのファスナーを降ろし、用を足しながら、彦さんは川岸の夜景を眺めた。秋めいた風に、ぶるりと身を震わせる。
そのとき、川面で何かポチャンという音を聞いたような気がした。彦さんは酔った目で、川面に視線を凝らす。
最初は魚だと思った。川面にゆったりと動く背ビレらしきものが覗く。それは彦さんの方へ近づいてくるようだった。
彦さんは身を乗り出すようにして、何の魚だろうと川を覗き込んだ。しかし、魚は深く潜ったようで、すぐに見えなくなった。
そろそろ戻ろうかと思ったときだ。彦さんはファスナーをあげかけて、近くで水音を聞いた。さっきの魚か。
「──っ!?」
次の刹那、彦さんは急に足を引っ張られ、川へ引きずり込まれた。悲鳴を上げる間もない。一瞬のことだった。
彦さんが川の中に落ちた水音だけが大きく響いた。だが、それきり。テントの中にいた源六は外の異変に気づかなかった。
彦さんが落ちた場所からは細かい気泡が浮き上がってきたが、それもすぐに途絶えてしまった。
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