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WILD BLOOD

第10話 KILL BLOOD

−6−

 影人と詩織は、父、降旗源六に追い返された渚を新宿歌舞伎町のランジェリー・パブ《パフューム》まで送り届けた。
 河川敷からの帰り、渚は押し黙ったままだった。無理もない。十三年ぶりに再会した父親に冷たい態度を取られたのだ。帰りのタクシーの中、渚よりも詩織の方がむしろ憤慨していた。
「冗談じゃないわ! 十三年ぶりに会った娘に、何が『人違い』よ! 何が『帰れ』よ! 苦労をかけた実の娘に『すまなかった』の一言もないワケ!? まったく、あれでも人の親かしら!?」
「早乙女さん……」
 つい語気を荒げた詩織に、影人が控えめに制した。今の詩織の言葉は、ただでさえ打ちひしがれている渚に追い討ちをかけるようなものだ。それに気づいた詩織は口許を抑え、渚に謝罪した。
「ご、ごめんなさい……」
「いいのよ。本当のことだもの」
 渚は力ない笑みを浮かべながら、弱々しく首を横に振った。口ではそう言っているものの、ショックをかなり受けていることは否めない。詩織は余計なことを言ってしまったことに、深く反省した。
 重苦しい雰囲気のまま、タクシーは歌舞伎町に着いた。タクシーから降りた渚は、別れ際、影人たちに頭を下げる。
「今日はありがとう。あなたたちがいてくれなきゃ、きっと私、父に話しかけることも、会いに行くこともできなかったわ」
「渚さん……」
 父娘のためを思ってしたことであったが、結果的に、渚をさらに辛くさせてしまった。詩織は悔恨に唇を噛む。
「私、もう父のことは忘れるわ。父には父の人生が、私には私の人生がある。母が死んだことを伝えられただけでもよかった。今さら昔に戻れないことなんて、最初から分かっていたんだから」
 渚は、もう一度、影人と詩織に会釈すると、店へ戻っていった。
 そんな渚の後ろ姿を見送りながら、詩織が呟く。
「血のつながった親子なのに……どうして二人とも、あんな寂しいことを言うのかしら」
 詩織は割と裕福な家庭に育った。今も両親と一緒に暮らしており、家では互いに包み隠さず何でも喋るし、たまには外食に出掛けたり、連休には家族旅行を楽しんだりと、幸せファミリーの見本みたいに仲がいい。だから、なぜ渚たち親子が自分たち家族と同じようにできないのか、それがたまらなく悲しく感じられた。
 影人はそんな詩織と歌舞伎町に背を向けた。
「親と子である前に、まず個々の人間だからでしょう。血がつながっていても、心まで通い合っているとは限りませんから」
 いつも茫洋としている影人のものとは思えない辛辣な言葉に、詩織は胸に棘が刺さるような感触を覚えながら振り返った。そのとき、すでに影人は、一人、駅の方へ向かって歩き始めていた。



 彦さんがトイレに立ってから、かれこれ十分以上。一人残された源六は、一向に戻ってこない彦さんを心配し始めた。
 無類の酒好きである彦さんが酔いつぶれたところなど、これまで見たことがない。ろれつが回らなくなるまで飲んでも、いつも千鳥足で、大丈夫、大丈夫と言って、平然と帰っていくのが彦さんだ。とはいえ、そろそろ彦さんもいい歳である。面と向かって、ちゃんと尋ねたことはないが、源六よりも、五、六歳くらい──ヘタしたら、もっと──年上なのは間違いないだろう。ひょっとして外で倒れているかもしれないと思い、源六は念のため様子を見てくることにした。
 外へ出ると、秋めいた涼しい風が火照った顔に当たって心地よかった。そのおかげか、いくらかアルコールでぼんやりしていた頭が鮮明になった気がする。新鮮な空気を肺一杯に吸い込んでから、源六は彦さんの姿を捜した。
「おーい、彦さん?」
 夜といえども、外は煌々と照らされた外灯が立ち並び、かなり明るかった。しかし、源六が住んでいる橋のたもとだけは影になっており、まるで闇の中に沈んでいるかのようだ。源六は足下に気をつけながら、真っ直ぐ川に近づいた。
 とりあえず見渡したところ、橋の左右に彦さんの姿どころか、誰もいなかった。源六の呼びかけにも返事はなし。ただ、車の音と川の流れが聞こえるだけだ。
 そのうち、次第に暗がりに目が慣れてきた源六であったが、やはり彦さんはいなかった。一体、どこへ行ってしまったのか。これまで、彦さんが源六に黙って帰ってしまうなんてことはなかった。仮に急用を思い出したにしても、必ず何かしら一声かけていくはずだ。
 源六は、ふと彦さんがさっきしていた話を思い出した。このところ、同じ河川敷で暮らすホームレス仲間がいなくなっているという話だ。彦さんはそれを立ち退かせたい都や区役所の陰謀だと言っていたが、果たして本当にそうなのか。例えば、何かの犯罪に巻き込まれた可能性だって考えられる。実際、巷ではホームレス狩りなんていうのもあって、おちおち寝てもいられないらしい。ただ、今の彦さんの場合は、特に争ったような声などを聞いていないので、違うような気もするのだが。
 彦さんの身に何が起きたのか、源六はあれこれ考えながら川の近くまで歩いた。その刹那──
「うわっ!」
 いきなり源六は後ろに倒れた。不覚にも足を滑らせたのである。手を突くことも出来ず、源六はしたたかに腰を打ちつけた。
「あいたたたたたっ……」
 あまりの痛みに、源六は顔をしかめた。つくづく歳を取ったものだと思う。いつまでも若いつもりでいただけに、自分で自分がイヤになった。
 源六は立ち上がろうと、河原に手をついた。その途端、ヌルッという感触を覚え、慌てて手を引っ込める。それが足を滑らせた元凶であると気づいた。
 そのヌルヌルしたものは、源六の手にべっとりとついた。何となく臭いを嗅いでみる。すると猛烈な魚臭さが鼻を突き、源六は、うっ、とむせた。元漁師である源六でも、それは受け入れがたいほどの異臭だった。
 源六はそのまま川の水で手を洗った。しかし、いくら擦っても、ぬめりは容易に取れない。源六は懸命に手を洗った。
 そのとき、川で何かが跳ねるような音が聞こえた。源六は反射的に手を止め、耳を澄ます。そして、ジッと川面に目を凝らした。
 水音はそれきりしなかった。だが、源六は無性にイヤな予感がして、川辺から後ずさる。まだ手にぬめりがあるのも構わなかった。
 川辺に残されたヌルッとした痕跡。強烈な魚臭さ。それらが源六の頭の中で、正体不明の水音に結びついた。
 源六は彦さんを捜すことも忘れ、自分のテントに駆け戻った。川から何か得体の知れぬものが這い上がってくるのを恐れながら。



 詩織をJR新宿駅まで送っていったあと、影人は自宅に帰るため、私鉄の駅へと向かった。途中、新宿アルタ前で信号待ちをする。
 そのとき、影人の背後に、いきなり気配が生じた。影人には、それが誰だか分かる。身なりのいい背広を着た中肉中背の紳士だ。
 影人は振り向くことなく、眼鏡だけを外した。
「依頼か?」
 影人の声は、後ろにいる紳士以外、周囲の誰にも聞こえなかった。この二人を見て、誰も会話しているなどと気づかないだろう。
「左様でございます」
 紳士の声もまた、影人にしか聞こえなかった。新宿駅前という衆人環視の中、驚くべき会話法だ。
 信号が青になった。影人は人混みに押されるようにして、横断歩道を渡り始める。紳士はその後ろをピッタリとついていた。
「このところ、荒川の河川敷にてホームレスが謎の失踪を遂げているそうでございます」
「荒川の河川敷?」
 つい先程まで、影人たちがいたところだ。
「はい。今月に入って、すでに五人。もちろん、警察は事件性が薄いと判断し、捜査もしておりませんが」
「当然だろうな。ホームレスが消えたところで、誰も気にかけやしない。気まぐれに住む場所を変えたんだろうとか、里心がついて故郷に戻ったんだろうとか、そんな解釈をされるのがオチだろうな」
「おっしゃる通りで。しかし、このホームレスたちには、いずれも荷物が残されたままでございました」
「なるほど……自発的に移動したなら、荷物も持っていくのは当然。何かの事件に巻き込まれた可能性が高いというわけだな」
「それでも、やはりホームレスが相手では、警察も重い腰を上げなかったようでございます。ところが三日前、とうとう一般人の被害者が出ました」
「ほお」
「河川敷をデートしていたカップルなんですが、男がジュースを買いに行っている間に、女の姿が忽然と消えてしまったとか。現場には女性の物であるハンドバッグと靴、そして、川から何かが這いずり出たような濡れた跡が残されていたそうであります」
「………」
「警察は誘拐ではないかと考え、捜査しているようでございますが、我が主人によれば、おそらく魔物の仕業であろうと。そこで仙月様に、またこうしてお願いに参上したわけでございまして」
「怪異の原因究明と、魔物であった場合は、その退治か」
「左様で。報酬の方はいつもの通り。なるべく早く解決してくださると助かります。いかがでございましょう? お引き受けいただけますか?」
「……分かった。スポンサーからの依頼なら、喜んで引き受けよう。それにオレも少し気になるところがある」
「では、よろしくお願い致します」
 影人が駅へ着く前に、背後にあった紳士の気配は消えていた。神出鬼没の男である。しかし、影人は特に気に留めた様子もなく、そのまま帰途へとついた。

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