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WILD BLOOD

第10話 KILL BLOOD

−7−

 翌日、仙月影人は再び荒川の河川敷へ来ていた。もちろん、昨夜受けた依頼の事前調査だ。務めているS区役所には、朝のうちに体調が悪いので休むと連絡してあった。
 多分、影人の同僚である詩織辺りはサボりだと睨んで、その不真面目さに頬を膨らませているに違いない。それを想像して、影人は微苦笑を洩らした。
 河川敷は、昨日訪れたときと変わらず、一見、平凡な日常を繰り返していた。しかし、さすがの影人も川の中まで見通すことは出来ない。このどこかに、ホームレスたちを襲う魔物がいるというのか。影人は川下から川上に沿って歩いてみた。
 やがて、降旗源六がテント暮らしをしている橋の近くまで来た。何気なく、そちらの方向を見やると、偶然にもそこにいたのは源六と制服姿の警官である。警官はどうやら巡回パトロール中だったらしく、自転車から降りて立ち話をしていた。それも普通の会話というより、口論をしているような感じだ。もっぱらエキサイトしているのは源六の方で、警官はいささかうんざりとした顔をしていた。
「だから、何度言ったら信じてくれるんだ!?」
 影人が近づいていくと、苛立った源六の声が聞こえた。警官はその剣幕に気圧されながらも、まあまあ、と源六をなだめる。相手がホームレスとはいえ、邪険にするわけにもいかないのだろう。公僕とは、つらい立場だ。
「落ち着いてください。ご友人の身に何かがあったとは、まだ決まったわけじゃないでしょう?」
「いいや! 何かあったに違いない! 私と一緒に酒を飲んでいて、急に帰ってしまうなんてことは、これまでになかったんだ! 朝一番に彦さんが住んでいるところにも行ってみたが、帰ってきた様子はなかった! きっと川に転落したか、何かの事件に巻き込まれて──」
「ですから、決めつけるのは、まだ早いと──」
「どうしたんですかぁ?」
 いささか間延びした調子で、影人は源六たちに声をかけた。昨夜、仕事を依頼してきた紳士との会話のときに見せた殺気をはらんだ雰囲気など微塵も感じさせない。
「あんた……」
 源六は娘と一緒にいた影人を憶えていたようで、突然の登場に少し驚いた様子だった。
 一方、警官は口を挟んできた青年を頭から爪先まで、ジロリと眺める。影人は懐から名刺を差し出した。
「私、S区役所福祉保険部保護課の仙月と申します。実は今、不法に路上で生活している人たちの実態を調査しておりまして」
「それはそれは、ご苦労様です」
 同じ公務員ということもあるのだろう。警官はたった一枚の名刺で、影人に対する警戒心を解いた。
「それで、何かあったんですか?」
 影人は二人に尋ねた。
 源六は、昨日、娘の渚に付き添っていた影人に、やや抵抗を持っているようだった。目線は逸らし気味で、態度は頑なだ。口は真一文字に結ばれている。代わりに警官が話してくれた。
「実は、この人が言うには、昨日の晩、ここで一緒に酒を飲んでいた友人の方がトイレに立ってから戻ってこなかったそうなのです。川に落ちたのでは、とか、何かの事件に巻き込まれたのでは、と心配されているのですが、今のところ、管内でそれらしい事件や事故は起きていませんし、単なる取り越し苦労じゃないかと──」
「取り越し苦労などではない!」
 源六は激しく抗議した。どうやら、それが延々と繰り返されてきたらしい。警官は影人に肩をすくめて見せた。
「川に落ちたかもしれないなら、何かそれらしい痕跡みたいなものはないんですか?」
「痕跡と言われても、特には……」
 問いかける影人に対し、警官は困り果てたように帽子を脱ぐと、ボリボリとやや薄くなり始めた頭を掻いた。
 念のため、影人は近くの川岸を調べてみた。すると、何やら魚が腐ったような異臭が漂ってくる。その臭いの元を辿ると、護岸に半透明をした粘液状のものが、座布団一枚くらいの大きさにこぼれていた。
「これは?」
「さあ? 多分、何かの廃液をこぼしたものじゃないでしょうか?」
 警官は当てずっぽうに答えた。
 影人はしゃがみ込むと、黒縁の眼鏡を外した。そして、普段は誰にも見せることのない鋭い眼で、粘液を調べる。指先にもすくって、その正体を見極めようとした。
「確かに奇妙なものですけど、それは関係ないと思いますよ」
 警官はすっかり決めつけているようだった。
「そうですね……」
 影人は曖昧に返事をすると、再び眼鏡をして振り返った。
「降旗さん、行方不明になった友人とは、どなたなんです?」
「………」
 源六は答えなかった。どうやら影人には話すつもりはないらしい。さすがに昨日の今日で警戒されているか。横合いから警官が口を挟んだ。
「彦さんというホームレス仲間だとか。この、もう少し上流へ行ったところに住んでいたそうです。私もこの管内の担当なので、何となく顔は知っていますが」
「お巡りさん、最近、オレたちの仲間がいなくなっているって言うじゃありませんか」
 昨夜の彦さんとの会話を思い出し、源六が不意に言った。指摘された警官は、益々、困った顔になる。
「まあ、確かに。この一ヶ月ばかり、そういう話を耳にはしますが……」
「本当に?」
 その情報はすでに得ていたが、影人はわざと白々しく尋ね返した。現場の声というのも聞いてみる必要がある。すると警官は表情を曇らせた。
「この河川敷沿いで暮らしていたホームレスの姿が減ってきているのは確かです。しかし、彼らが何かの事件に巻き込まれたとか、そういう形跡は残っていません。これから冬に備えて、新しく住む場所に移ったんじゃないか、というのが我々の間での見方です。この辺じゃ、寒さを凌ぐのも大変でしょうから」
「でたらめを言うな! 仲間に一言もなくいなくなるヤツがいるものか!」
 警官の無責任な発言に、源六は激した。結局はホームレスだから、まともに相手をしてもらえていないのだ。
「こうも次々といなくなっているということは、何か事件が起きている可能性が高いということだろう!? 今、警察が動いてくれなければ、もっと多くの犠牲者が出るかもしれないんだぞ!」
 源六は警官にすがりつくようにして、半ば脅迫的に、捜査してくれるよう懇願した。警官は顔をしかめる。満足に風呂も入っていないホームレスの源六に近寄られるのが我慢できないらしい。先入観も手伝って、警官は源六をすっかり忌避していた。
「じゃあ、捜索願を出してみますか?」
「捜索願?」
「そうです。それを出していただけるなら、こちらも本格的に捜査をしますよ。ただし、捜索する人の氏名や生年月日、現住所などが必要ですがね」
 互いの過去には干渉しない不文律があるホームレスだ。源六が彦さんの本名や生年月日を知っているわけがなかった。それに現住所だって存在しない。現住所がないからこそのホームレスではないか。
 もちろん、警官もそれを分かっていて口にした捜索願だった。肝心の捜索願を出せないなら諦めろ、と暗に言っているのである。要は話を打ち切らせる方便に過ぎなかった。
 源六は肩を落とした。またしても自分が無力だと思い知らされ、ショックを受ける。
「とにかく、万が一、身元不明の遺体などが発見されたら、あなたに知らせてあげますよ。今日のところは、それで諦めてください」
 警官はそう言うと、自転車に跨った。源六は引き止める気力もなくなったのか、フラフラと自分のテントへ戻ろうとする。警官は残った影人に一礼すると、そのまま自転車に乗って走り去っていった。
「降旗さん」
 警官を見送った影人は、源六を呼び止めようとした。しかし、源六はまるで影人の声が聞こえていないかのように、そのままテントの中へ入ってしまう。影人は少しためらったが、源六を追って中に入った。
 ブルーシートで作られたテントの中は、小さな空間の割に様々な物が運び込まれたせいで密度が濃かった。毛布や衣類の類はもちろん、ペットボトルや新聞、雑誌、その他、どう見てもゴミにしか見えない物があちこちに山となっている。多分、本人はこのすべてを把握しているのだろうが、影人には半分以上がいらない物にしか思えなかった。
「何だ、お前!?」
 源六は断りもなく影人が入ってきたのを見咎めた。たちまち険しい表情になり、影人を追い出そうとする。
「出てけ! 勝手に入ってくるな!」
「降旗さん、待ってください! 私に先程の話をもう少し詳しく──」
「うるさい! お前だってオレの話なんかこれっぽっちも信じてないクセに! 帰れ! やっぱり、国家の下で働いている人間は、オレたちのことをゴミ同然にしか思っていないんだ!」
「そんなことは──」
「出て行けと言っているだろう!」
 源六は影人を突き飛ばした。天井が低く、腰を屈めるような格好をしていた影人は、踏ん張りが効かずに倒れてしまう。その拍子に、脇に置かれていたボストンバッグに腕が当たって、中身をぶちまけた。
 その瞬間、源六がハッとした顔になった。慌てて、こぼれた品物の中から丸められた画用紙を取り上げる。それは渚が小学生の頃に描いた源六の似顔絵。すべてを捨てたはずの源六が、唯一持ち歩いている過去であった。
 画用紙を胸に抱く源六を、影人は不思議な眼差しで見つめた。影人にも、それがいかに大切な物であるかが分かる。 「……出てけ……もう二度と来るな」
 一転、涙ぐむような声で源六は言った。影人はそれ以上は何も言わず、テントから出て行く。
 一人になってから源六はむせび泣いた。最愛の家族を捨ててしまった後悔を募らせながら。

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