[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
夜。
それは影人にとって、本当の仙月影人でいられる時間だ。
影人の素顔──それは魔物を追いつめる闇の狩人。
さらにもう一日かけて河川敷を調査した影人は、一旦、自宅に戻り、シャワーを浴びて着替えてから、地下の駐車場へと降りた。
それにしても、と影人はエレベーターの中でほくそ笑む。今し方、自宅で顔を合わせた、弟アキトの友人、武藤つかさという少年と忍足薫(おしたり・かおる)という少女。影人は二人のこと──特につかさという少年を思い出さずにはいられなかった。
妹の美夜から少し話を聞いていたが、確かに女の子と見紛いそうなくらい可愛い少年と芯の強さを秘めた美少女だった。
しかし、薫の方はともかく、影人と握手を交わした瞬間のつかさが何より印象的だった。そのとき、つかさは影人から何かを感じ取ったらしく、一瞬、表情を強張らせたのだ(「WILD BLOOD」第9話を参照)。影人も表情にこそ出さなかったが、えらく感心したものである。
影人が見たところ、どうやらつかさは、人間にしては稀に邪気や魔を感じ取る感覚を身につけているようだった。それに付随してか、並々ならぬ秘めた力も隠し持っている。それはまだ、本人にも確たる自覚がなく、まだ内面にくすぶっている程度でしかないが、それが自然に引き出せるようになれば、彼はアキトや影人ら人ならざる者をも凌駕できるだろう。だからこそ、人間ではないアキトの友人として普通にいられるのかもしれない。
影人はアキトとつかさのこれからを考えると、自然に微笑が浮かんで仕方がなかった。またいつか、つかさに会ってみたいものだと思う。もっとも、向こうは遠慮したいかもしれないが。
エレベーターが地下駐車場に到着した。ドアが開くと同時に、影人の表情が、昼間の茫洋とした区役所職員から、非情なる魔人へと変貌する。数日前、魔物と死闘を演じた、あの顔だ。そして、一台の真っ黒なスポーツカーに近づいた。
エンツォ・フェラーリ。
イタリアの自動車メーカー、フェラーリが創業五十五周年記念し、創始者の名を冠して製造したスーパーカーだ。世界でも三百九十九台しか製造されていないという。
F1マシンを模したような、バンパーより前に突き出したノーズが特徴的なフォルム。影人がリモコン・キーを操作すると、ガルウイングのドアが持ち上がった。影人はコクピットに自らの身体を滑り込ませる。
エンジンをスタートさせると、獣の咆吼のような爆音が吹き上がった。ハンドルから、そしてシートから、愛車エンツォ・フェラーリの鼓動が伝わってくる。自分もマシンも、深い眠りから覚醒したような感覚だった。
影人はエンツォ・フェラーリを急発進させた。タイヤのスリップ音が地下駐車場にけたたましく響き渡り、摩擦によって生じた白い煙を吐き出す。漆黒のモンスターマシンは、地下駐車場のスロープを猛スピードで駆け登ると、暴走気味に夜の街へと飛び出した。
とりあえず情報は集めた。だが、事件の元凶が魔物だとすれば、動きを見せるのは夜。影人はエンツォ・フェラーリを河川敷に向かって走らせた。
傍目からすれば、傍若無人な運転ぶりだった。制限速度など無視して、流れる車の隙間を縫うように追い抜いていく。警察に捕まれば、一発で免停まちがいなしだ。
しかし、そんな影人を阻むものなどいない。夜に溶け込んだかのような黒いボディに誰もが恐れをなし、すごすごと道を開ける。エンツォ・フェラーリは一瞬にして他の者たちを置いてきぼりにし、タイムラグを伴った爆音と夜光虫のような赤いテールランプが悪い夢だと言い聞かせた。
一般道から高速道路に入ったところで、携帯電話にメールの着信があった。影人はスピードを緩めぬまま、片手でメールをチェックする。同僚の早乙女詩織からだった。
『やっぱり、このままでは渚さんがかわいそう。これから降旗さんを説得しに行きます。 しおり』
「ちっ!」
影人は、思わず舌打ちした。源六を説得するということは、こんな夜遅い時間に河川敷へ行くということだ。いくら知らぬこととはいえ、魔物が出る可能性も否めず、危険極まりない。
詩織の身が心配になった影人は、相棒たるエンツォ・フェラーリのアクセルをさらに踏み込んだ。
影人と連絡が取れなかった詩織は、メールで用件だけを伝えて、単身、源六が住む河川敷へとやって来た。
渚は父親のことを忘れると言っていたが、詩織には、到底、それが本心だとは思えなかった。冷たく突き放した源六にしても、たった一人の娘を愛していないわけがない。両親から愛情たっぷりに育てられた詩織は、そう信じていた。
もう一度、二人にじっくりと話し合ってもらいたい。詩織はそのことを考えると、いても立ってもいられず、すっかり日が暮れてしまったことも忘れて、源六のところへと赴いた。
夜の河川敷は、昼間とは打って変わって淋しいものだった。川にかかる橋には、絶えず車が往来していて、煌々とした外灯の明かりに照らされているが、そこから少しでも離れてしまうと道は暗く、人通りも皆無だ。女の一人歩きには物騒すぎる。
詩織は、やっぱり影人にでも同行してもらうべきだったかと後悔したが、ここまで来て引き返すわけにもいかなかった。勇気を奮い起こして、源六のテントへ向かう。その足が自然と速くなっていたのは、致し方ないところだ。
ブルーシートで出来たテントは、ひっそりと静まり返っていた。源六は中にいるだろうか。とりあえずテントの脇には、源六が仕事で使用にしているリアカーが置かれているのを見ると、帰っているのではないかと思うが。
「こんばんは、降旗さん。先日、渚さんと一緒にお伺いした早乙女です。ちょっとの間だけ、お時間をいただきたいのですが、よろしいですか?」
詩織はテントに向かって呼びかけてみた。しかし、生憎と返事はない。留守なのかと思った。
それを確かめようと、詩織はテントの入口に手をかけた。すると即座に声が飛ぶ。
「入るな!」
前に一度、影人に入られたことを腹立たしく思っていたのだろう。源六の声は詩織の手を引っ込めさせるほど厳しかった。
だが、詩織もここで簡単には引き下がれない。ひとつ深呼吸をして、話しかけた。
「降旗さん。もう一度、渚さんと会ってもらえませんか? 渚さんは、ずっとお父さんであるあなたと会いたかったはずなんです。あなたをお父さんと呼びたかったはずなんです。十三年前のことは渚さんから話を聞きました。漁師仲間を失った降旗さんのつらさは私にも分かるつもりです。でも! 渚さんだって、死んだ奥さんだって、降旗さん同様につらかったんじゃないでしょうか!? 村の人たちから責められる降旗さんを見て、二人とも傷ついたんじゃないでしょうか!? それでも渚さんたちは堪え忍んだ! なぜだと思いますか!? 私は、渚さんと奥さんがあなたの味方だったから、家族だったからだと思います! 降旗さんは、そんな家族を捨ててしまったんです。これは漁船で事故を起こしたことよりも重いことじゃないでしょうか? どうか、償ってあげてください。それができるのは、唯一の家族である降旗さんしかいないのですから」
「………」
詩織の必死さは、どこまで源六に届いたか。相変わらずテントの中からは何の反応も返ってこなかった。
「降旗さん、お願いです。どうか、渚さんと」
テントに隔てられているというのに、詩織は深々とお辞儀をした。それから身じろぎもしない。源六が出てくるまで、こうしているつもりだった。
──と。
不意に詩織の背後で不審な水音がした。川の流れではない。まるで風呂から誰かが上がったような音だ。詩織は後ろを振り向きかけた。
次の瞬間、詩織の足首に何かが巻きついた。
「キャーッ!」
外から呼びかける詩織に対し、ただテントの中で黙り込むしかなかった源六は、突然、悲鳴を聞いた。もちろん、詩織のものだ。入口のすぐ前にいた源六は、ブルーシートを払いのけた。
その瞬間、源六はギョッとした。目の前にいたのは、何とも奇妙な生き物だったからだ。
大きさは源六とあまり変わらないくらいだろう。全身は黒くぬめり、生魚特有の臭みが漂ってくる。彦さんが消えたと思われる現場に、痕跡として残されていた粘液状の液体。その臭いと一緒だった。
そいつは人間のように二本足で立ち、ヒレから進化したような腕もあった。例えるならナマズかウナギにカエルの手足がついて立ち上がったような感じである。背ビレのついた長い尻尾を持ち、その先は倒れている詩織の足首に巻きついていた。
どうやら詩織は引き倒された拍子にでも頭を打ったらしく、気絶しているようだった。ナマズの化け物は、そんな詩織の身体を引きずって、川へ戻ろうとしている。きっと彦さんも、そして、最近、行方不明になったというホームレスたちも、この化け物の餌食になったのだと源六は断じた。
そのとき、源六の脳裏に悪夢のイメージが重なった。漁船が沈没して暗い海を漂っているとき、沈んだと思われていた仲間たちから足を引っ張られて海の底へ引きずり込まれる、あの悪夢だ。今、その引きずり込まれる者が、源六から娘の渚へと変わっていた。
詩織と渚は、そんなに歳も違わないはずだ。源六の目には、どういうわけか二人が重なった。渚が川の中へ連れて行かれる。そんな錯覚を覚えた。
「ま、待て!」
得体の知れない化け物への恐怖など、どこかに吹き飛んでいた。ただ、詩織を──いや、渚を助けようと、化け物を追いかける。
化け物は、そんな源六を嘲るように、詩織を捕獲したまま、川の中へと飛び込んだ。水しぶきが上がり、化け物の姿はもちろん、詩織の身体も川面に沈んで見えなくなってしまう。
「渚ぁ!」
考えるよりも先に、身体が行動していた。化け物に連れ去られたのは娘ではなく、目障りな区役所の女性職員であることも理解している。しかし、源六は化け物の後を追うように川へ飛び込んだ。
老いたとはいえ、これでも元漁師。泳ぎには自信があった。
源六は、一度、水面に頭を出して息を止めると、真っ暗な川底へと潜った。
[←前頁] [RED文庫] [「WILD BLOOD」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]