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夜の静寂<しじま>をつんざくブレーキ音が河川敷に響き渡った。黒のエンツォ・フェラーリが完全に停止するか否かのうちに、全身、黒ずくめのスーツに着替えた影人がガルウイングから飛び出す。サングラスをかけた眼は、昼間のように河川敷を見渡すことが可能で、源六を説得に来たはずの詩織の姿を捜した。
だが、暗視に頼るよりも早く、影人は異変を察知していた。臭いだ。昨日の昼間、同じくこの場所で、魚が腐ったような異臭を嗅ぎ取っていたが、今はそれがさらに濃くなっている。多分、普通の人間では、その差違が分からないであろう。影人だからこそ知覚できた臭いだった。
臭いがきつくなった原因は明白だ。異臭の元凶がこの近くにいるか、さっきまでここにいたか、である。
次に影人は耳を澄ませた。こちらは特に何も聞こえない。いや、聞こえていいはずのものさえ聞こえてこなかった。テントで寝泊まりしている源六の呼吸音である。死んでいるのでなければ、それは源六の不在を示していた。
異臭と源六の不在。この二つを結びつけずに考えることはできなかった。何かが起こった。おそらく、詩織を巻き込んで。
影人は土手から下へ降りた。案の定、またしてもコンクリートの護岸には粘液状の痕跡が残されている。それは源六のテントの前から、川の中へと続いていた。
それからの影人の行動は、さらに迅速だった。エンツォ・フェラーリのところまで戻ると、川上に向かって猛スピードで走らせる。ただ詩織と源六の姿を捜して、闇雲に走らせているのではない。ある目的地が影人の脳裏にあった。
実際、まだ何かが起こったという保証はなかった。しかし、最近のホームレス連続失踪事件は不可解な点が多く、魔物による襲撃の可能性は高い。この二日間、現場と思われる場所をすべて回ってきたが、いずれもあの異臭を感じ取ることが出来た。となれば、今回も同じケースというわけだ。
犯人が魔物だとすれば、普段はどこに潜んでいるのか。水を好む性質からすれば、ずっと川の中ということも考えられなくはないが、そうでないならおあつらい向きの場所がある。
この河川敷沿いには、豪雨などによる増水、氾濫に備えて、一時的に川の水をためておくことのできる地下貯水槽がある。大都会の直下に作られた巨大な空間だ。そこは人が頻繁に訪れる場所ではなく、魔物の隠れ家としては最適に思えた。
影人は事前に当たりをつけておいた地下貯水槽の入口近くに愛車エンツォ・フェラーリを停めると、軽々とフェンスを跳び越え、鉄扉のノブに手をかけた。当然、部外者の立ち入りを禁ずるべく鍵はかけられている。影人は躊躇なく、ガン、とひと蹴りするや、頑丈な鉄扉をひしゃげさせ、強引に中へ押し入った。
中に入ると、地下へ続く階段が延々と伸びていた。それに伴って臭ってくる魚臭さ。どうやら影人の読みは当たったようだ。影人は躊躇なく階段を駆け下りた。まったく足音を立てずに。
階段を降りきると、そこからさらに巨大な奈落が眼前に現れた。貯水槽だ。今は川の水を引き込んでいないので、コンクリートの内壁と柱が剥き出しになった広大な空間である。実に野球場の二、三個は軽く入りそうな感じで、向こう側や左右の壁が随分と遠かった。
この巨大な空間を支えている柱が、これまた大きく、そのせいで全体を見渡すことは難しかった。しかし、このどこかに数人のホームレスを餌食にした魔物がいるはずだ。そして、おそらくは詩織や源六も。影人は手すりを乗り越えると、十五メートル下にある貯水池の底へ音もなく着地した。
魚の腐ったような臭いは、益々、濃くなって感じられた。近い。影人は警戒を強めた。両手にはめた黒い革手袋をさらに引っ張る。
そのとき、右の柱の陰に気配を感じ取った。
反射的に手刀を叩き込もうとした影人であったが、その動きは直前で止められた。なぜならば、現れたのは魔物ではなく、源六であったからである。
源六の顔色は真っ青を通り越して、蒼白であった。全身はずぶ濡れで、胸から両腕にかけて例の粘液がべっとりとついている。目に見えて消耗しており、足はよろけ、二、三歩も歩かぬうちに倒れ込んでしまった。
「降旗さん!」
影人は倒れた源六を抱き起こしにかかった。源六の息はか細く、ひどく弱々しい。目の焦点も影人に合っていなかった。目立った外傷は見受けられないが、きっと魔物にやられたに違いない。影人は源六が死の間際であることを悟った。
それでも源六は何かを伝えたいのか、微かに唇が動いた。影人は耳を近づける。
「た、助けてやってくれ……あの娘を……」
源六は、そう懇願した。
源六の「娘」という言葉に、影人は渚までここにいるのかと思った。だが、すぐにそれが詩織のことだと思い直す。詩織が魔物に襲われたのを見て、源六は助けようとしたに違いなかった。
十三年前の事故以来、他人どころか家族との関わり合いも捨てた源六が、どうして数日前に出会ったばかりの詩織を助けようという気になったのかは分からない。多少なりとも、再会した渚の影響があったのか。いずれにせよ、源六は人間としての良心を決して捨ててしまったわけではなかった。
源六は弱々しく右手を差し出した。その手を影人はしっかりと握ってやる。その刹那、源六の身体が急に重たくなった。
「………」
影人は源六の亡骸をそっと横たえた。サングラスの奥で、どのような眼をしていただろうか。影人は手を合わせるでもなく、ただしばらくの間、源六の死に顔を眺め、そして立ち上がった。
源六が現れた方向へ急ぐと、異臭と共に、次第に魔物の持つ瘴気が立ちこめてきた。普通の人間ならば、吐き気を催すほどに。しかし、人間ではない影人にとっては慣れ親しんだものであった。
「──っ!」
前方、右側の柱の陰から人間の腕らしいものが覗いているのを影人は発見した。と同時に、それが女性のものであると看破する。詩織か。影人はすぐさま、そこへ駆け寄った。
それはまさしく詩織であった。川の中を連れ去られてきたせいか、全身はびしょ濡れで、柱にもたれかかるようにして気絶してはいるが、呼吸は割としっかりしている。とりあえず詩織の無事を確認し、影人はホッとした。
だが、詩織に気を取られていたせいで、影人は頭上の気配に気づくのが遅れた。
振り仰ぐ影人。その眼が二対の濁った眼と真正面から向き合った。
数々の魔物を始末してきた影人も初めて見るタイプだった。魚というよりは、体表面がつるりと黒く濡れ光るウナギに近い。それでいて手足が生えそろい、吸盤でもあるのか、まるでイモリのようにしっかりと柱に張りついていた。
魔物は腹這いの格好で柱に張りついたまま、素早く頭と尻尾を反転させた。逆さになっていた魔物の尻尾が影人の頭目がけて振り下ろされる格好になる。逃げるには手遅れ。影人はとっさに両腕で頭部をガードした。
ビチッ!
弾力に富んだ尻尾がしなり、巨大なムチとなって影人を襲った。ガードしていても防ぎきれない一撃に、影人は頭から吹き飛ばされる。優に十メートルは弾かれ、影人は貯水池の床に倒れ込んだ。
泳ぎに長けているはずの魔物は、水から上がってもすばしっこかった。間髪を入れず、張りついていた柱からダイブするや、空中で身をひねり、尻尾を倒れている影人に再び叩きつけようとする。影人はタッチの差で、横に転がるようにして避けた。
一瞬でも遅れていれば、さすがの影人もただでは済まなかっただろう。影人がいた場所には尻尾の破壊力を物語る亀裂が蜘蛛の巣の如く無数に走っている。体勢を立て直した影人は、それを見て、ふーっと息を吐き出した。
「しっかりしろよ、仙月影人」
影人は自分で自分を叱咤した。気絶している詩織を前にして、魔物に不意討ちを喰らったことが気に食わないのだ。詩織など、昼間の顔ならばともかく、夜の顔にとっては取るに足りない人間の女でしかないはずなのに。
影人は冷静さを取り戻そうとするかのように、ひとつ呼吸を置いた。
そんな影人に対し、魔物は後ろ脚で立ち上がった。改めて影人は敵を観察したが、魔物はナマズのヒゲのようなものを震わせ、コイのように口をパクパクさせている。おそらくは、古来より、この川の主であったのだろう。あるいは、その眷属か。それが流した廃液やら投げ捨てたゴミなどで、守護していたはずの川が汚れ、邪悪なる存在へと変成したに違いない。いずれにせよ、人間たちは我が物顔で川を汚し、自らの手で己が脅威を作り出したのだ。
魔物は身を低くするや、カエルのように跳躍した。五メートルもの頭上の柱へぺたりと張りつく。そして、どのように料理しようかと吟味するかのように、真下にいる影人を睥睨した。
影人は肩をすくめた。やれやれ。どうやら魔物は、獲物として影人を見ているようだ。影人は苦笑を禁じ得なかった。ここは、どちらが獲物か知らしめるべきだ。
軽く膝を屈伸させ、影人もまた跳んだ。楽に五メートル。魔物がいる高さだ。これまで餌食にしてきた人間には、到底、達することができなかったはずである。だから、それをやってのけた影人を目の当たりにして、魔物は驚愕したはずだった。
影人は蹴りを放った。その威力は、魔物の尻尾と遜色ないもの。しかし、鋭い一撃は無情にも空を切った。
それよりも素早く、魔物は空中へダイブしていた。黒くぬめった異形が影人の頭上で跳ねるように踊る。またしても強烈な尻尾の攻撃が影人を襲った。
だが──
「同じ手は食わない」
今度は影人も魔物の動きを読んでいた。その証拠に、いつの間にか右手の手袋が外されている。巨大な尻尾が影人を捉えようとした刹那、血が通ってないくらい白き繊手が一閃された。
ズバッ!
手刀は何物をも切断せずにはいられない斬撃と化し、魔物の尻尾を斬り飛ばした。
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